パティスリープードル



吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
小林氏
1960年2月6日鳥取県倉吉市生まれです。
吉野
小学校のくらいの時の小林オーナーは、どんなお子さんでしたか?
小林氏
子供の頃はおとなしい子でした。
何をやっても不器用で走るのもおそかったなぁ。
シェフ
吉野
遊びとかは何に熱中してました?
小林氏
父が木工職人だったんで、木切れとかを集めてままごとしてました。木を丸く削ったものをお茶わん代わりにして・・・・。
外でやんちゃな遊びはしてなかったですね。
吉野
木工職人というと?
小林氏
お盆とか茶道具を創る伝統工芸師です。今は身体をこわしてやってはいませんが、木工職人としては有名だったんです。
吉野
お父様は手先が器用だったんですね。
小林オーナーは、ご自分の事を不器用だったとおっしゃいましたが、その辺はどうなんでしょう?
小林氏
そうですね。興味のないものはまったくやる気がない。だから不器用なんですね。
中学1年までマラソン大会はビリだったんですが、2年生で卓球部に入ってから、毎日ランニングをするようになって、その年の大会では、トップでした。
吉野
ビリからトップですか?凄い変わりようですね。不器用というよりやらなかっただけですね。やればできる子供だったんですね。
小林氏
それは、言えるかも知れませんね。
吉野
菓子職人になるキッカケって何だったんですか?
小林氏
高校卒業をしてから実家の木工所を継いだんですよ。
子供の頃から父親から「お前は俺の跡を継ぐんだ」と言われてましたから何の疑問もなく父と一緒に仕事をしました。
でも途中で辞めてしまったんです。
吉野
何年間やられてたんですか?
小林氏
5年間です。仕事自体は、面白かったんです。作る作品の評価も良かったんで続けようと思えば続けられたんですが、何しろ給料がない。小遣い程度だったんです。友達は勤めてお金を自由に使えるんで、遊んでいる訳ですよ。それがイヤでしたね。
「俺は絶対、父を超える木工職人になってやる」という決意があったともいえない、ただ父から言われてやっているという何とも中途半端な気持でした。そのまま仕事を続けるのに耐えれなかったんです。
それと、伝統工芸品の需要もだんだん減ってきてましたんで、未来があるのかなあと漠然とした不安感はありました。
父への反発もあったし、けんかもしました。子供だったんです。父みたいに木工職人としての覚悟や誇りがなかったんでしょうね。
吉野
お父様の仕事を辞めてから、どうされたんですか?
小林氏
職業安定所に行きました。
どんな仕事がしたいのかというものはかったんですが、デスクワークはイヤだったんで、何となく手に職を付けるものを捜しました。
地元の倉吉でパンとケーキの店の求人が来てたんで、これでもいいかなあという軽い気持で応募しました。それで、その店に入ったんです。
吉野
そこから菓子職人のスタートだったんですね。
小林氏
そうですね。スタートと言えばそうなりますが、今から考えると職人としての技術を覚えたという感じではなかったですね。
仕事は雑用という感じではなかったけどケーキの配達とかケーキの仕上げなどが中心だったんです。
他の洋菓子店に行ってもっと貪欲に仕事を覚えたいと思って4年でそこを辞めました。本格的な洋菓子を作っている店に行きたいと思ったんです。
吉野
自分には菓子職人が向いていると思われたんですか?
小林氏
ケーキを作る仕事には魅力はありました。もっと高い技術を身に付けたいと思うようになりました。
そこで、倉吉でナンバーワンだった「マロン」という洋菓子専門店に入りました。
吉野
「マロン」に入られたのはおいくつの時ですか?
小林氏
28歳です。知り合いの倉吉にある「ラ・リスボン」という洋菓子店のオーナーからの紹介だったんです。
吉野
どうでした「マロン」での修行は?
小林氏
前の店と比べると別世界でした。毎日が楽しくてしょうがなかったですね。
都会的なお洒落なケーキが多くて、自分も早くこういうケーキを作りたいと思いました。
当時、「マロン」には大阪のプラザホテルで腕を振るっておられた安井さんという方がお菓子作りのコンサルタントとして来られてました。その後、安井さんの代わりに三枝俊介さんが来られるようになりました。
吉野
三枝さんと言えば、現在、ショコラティエ パレドオールのオーナーシェフですよね。
小林氏
はい、そうです。三枝さんは、ご自分の店をオープンされる前は、全国の洋菓子店のコンサルタントの仕事をされていました。「マロン」もその1軒だったんです。三枝さんから洋菓子の全てを教えていただきました。
吉野
「マロン」は繁盛店だったんですね。
小林氏
バタークリームの全盛の時代に生クリームのケーキを鳥取に引っ張ってきた店ですから、昔から有名店で繁盛してました。
オーナーは菓子職人ではなく経営者でしたので、常に新しいお店の展開を考えておられました。
外部の力のある菓子職人を講師として来ていただいたのも、お客様から飽きられないようにする考えがあったんだと思います。
吉野
お菓子作りに関しては、先輩の職人の方はおられたんですか?
小林氏
私が入った時には、ガソリンスタンドで働いてた人とかがいまして、転職して「マロン」に入ってきた人たちが先輩としていました、みな転職してきた方とは思えないほどの技術をもっておられました。でも、三枝さんのお菓子作りに憧れみたいなものを感じていたんで、お菓子作りの師匠は三枝さんだと思っています。
その頃はスポンジ系のケーキが多かった時代ですが、当時としては珍しいムース系のケーキとかを教えていただきました。
吉野
ホテル経験の方から教えられたケーキというのは倉吉の方から受け入れられたんですか?
小林氏
元々、「マロン」のケーキは、都会的なセンスのあるケーキだったんですが、それがもっと洗練されたケーキになったんですから、多くのお客様に来ていただきました。
吉野
お忙しかったでしょう?
小林氏
そうですね。店にはティールームも人気があって午前中のモーニングや昼からのデザートを合わせると4回転してましたから、そっちのデザート作りなどもやっていたんで、半端じゃない忙しさでした。
職人はピーク時で8人ぐらいいたんですが、朝早くから夜遅くまでフルで働きました。
吉野
順調に売上を伸ばされてたんですね。
小林氏
ええ、ただ、生クリームを変えた時期からお客様の評価が変わりました。
吉野
生クリームを変えたというのは、何か原因があったんですか?
小林氏
安井さんや三枝さんなどの講師を招く場合には、ある大手の生クリームのメーカーを通じて来ていただくのですが、立場上そのメーカーの生クリームを使わないといけなかったみたいで、途中から一気に変えたんです。
地元の会社の生クリームを使っていたんですが・・・・。
吉野
生クリームを変えるという事は、お客様にとってはとまどいもありますよね?
小林氏
味がぜんぜん違いました。今までの生クリームで美味しいと思っていたお客様には、美味しくなくなったと思われたんではないでしょうか。
それに、私が入った頃は、物珍しさも手伝ってムースとかは売れていたんですが、作るケーキのサイクルも早いし美味しさが連想できないケーキも多かったんで、少しづつ売れなくなりました。
吉野
なるほど、生クリームも変えたのが決定的な要因だと思いますが、ケーキのサイクルのタイミングとか、ケーキ自体の分かりにくさがだんだん評価されなくなってきたんでしょうね。
小林氏
オーナーが職人ではなかったから、生クリームを変える重要性とか、地域に根ざした食文化を理解できなかったのかもしれません。
洗練されたケーキも最初は、受け入れられても、何年もすると今までの分かりやすいケーキの方が安心して食べる事ができますからね。
大阪や東京のなら違うんでしょうが、倉吉という街の食文化で慣れ親しんだ方には、少し違和感があったんでしょうね。
吉野
「マロン」には何年おられたんですか?
小林氏
11年いました。入って6年目からチーフとしてやらせてもらいました。
吉野
11年もおられたんですから、年齢的も独立という事はお考えにならなかったんですか?
「マロン」をお辞めになったのはおいくつですか?
小林氏
39歳でしたから、独立するチャンスだったんですが、父が病気で仕事を続ける事ができなくて、木工所の借金があったもんですから、その返済の為にどうしても独立はできなかったんです。
そのまま雇われ菓子職人として働かざるをえなかったんです。
吉野
そうですか。その後は、どうされたんですか?
小林氏
業者の紹介で鳥取のホテルニューオータニ系列のニューオータニベーカリーに入りました。
吉野
ホテルで出すケーキやお菓子を作るんですか?
小林氏
いやあ、ケーキと名の付くものは何でも作ってました。
ホテルの13階にあるレストランのラウンジに出してましたし、鳥取の大丸百貨店に洋菓子を売る店舗もありました。結婚式のウエディングケーキも作りましたし、その以外にベーカリーの店も10数店舗スーパーにテナントとして入ってましたんで、1個100円から500円の、その場所に応じたケーキを作っていました。
営業社員がとってくる学校や幼稚園の卒業式や入学式のケーキも作っていましたから何でも屋って感じでした。
吉野
ホテルのケーキ部門って色んなケーキを作るんですね。
小林氏
一時は、ベーカリーだけでも年間4億の売上だったみたいですが、私がニューオータニべーカリーに入った頃は、バブルがはじけて店舗が撤退してた時期だったんです。
ケーキの質が低く大丸百貨店のショップのケーキを見たときには、「これが天下のホテルニューオータニのケーキなの?」と疑いたくなるようなものだったんです。だから、ケーキは変えてもいいからという事を言われたんで、自分のものが出せるチャンスだと思いました。ただ、上司からは1週間でケーキを変えてくれといわれたときには驚きました。
吉野
なるほど、バブル時期は、出店すればするだけ売れてたんですね。売れなくなると原料や工程を合理化せざるをえなくなるので、どうしてもケーキの質は落ちますよね。
小林氏
経営という部分から考えるとそうなってくるのは当然でしょうね。特に会社組織から見ると売上が不振だったら、そこを縮小するか削るかのどちらかですからね。
撤退の影響でだんだん菓子工場の規模が小さくなって私が入社して1年間で3回も菓子工場の場所が変わりました。
吉野
当時は何人くらいで洋菓子を作られていたんですか?
小林氏
パートさんを入れれば30人くらいはいたと思います。ただ純然たる菓子職人は数人しかいませんでした。
チーフになってからはお菓子作りに加え、パートさんの管理とかの業務が増えてきました。
吉野
大変だったですね。お菓子も変えないといけないし、日々のお菓子作りもあるし、おまけにパートさんの管理や製造工程のチェックもするとなると大変ですね。
小林氏
ただ自分の店を独立してみて感じるんですが、そういった業務が今の店の経営には役に立ってますね。
菓子作り以外の業務も大事なんだなあと思っています。
吉野
その頃は、ニューオータニべーカリーの規模はどの程度の規模だったんですか?
小林氏
べーカリー自体はなくなってまして、ホテルの13階のラウンジ、大丸のテナント、それからグリーンハウスというレストランにお出しするケーキなどを作るだけになっていました。
だから、最終的には、ホテルの裏にあるビルの1階と4階だけが工場になりました。
吉野
随分、縮小されたんですね?
小林氏
でも、ホテルでお出しするお菓子やウエディングケーキとか、ニューオータニブランドのお菓子だけを専門に作れるようになったんで、仕事としては良い方向になったと思ってます。これが正常なお菓子作りだと思います。
お菓子のレベルも着実に上がってきましたんで、お客様の反応も良くなってきましたから。
吉野
独立をお考えになったのは、どういう理由だったんですか?

文字

小林氏
大きな理由は、結婚して子供ができたのが一番ですね。
このまま勤めても10年もすれば定年です。それからが子供の教育にお金がかかる時期ですから、経済的な部分でも不安でした。それと辞めて独立するにしても、年齢は49歳でしたんで、今しかないなあと思って独立することにしました。
吉野
資金はあったんですか?
小林氏
まったくありませんでした。無一文です。父親の借金も払っていましたんで・・・・。
商工会を通じて銀行から資金を借りようと思っていました。回りの友人は反対しましたけどね。
吉野
店の候補地は見て回ったんですか?
小林氏
鳥取市内を車で隅から隅まで見て廻りましたけど、価格的に高額な物件ばかりでした。
妻の実家の鳥取の智頭という所にガソリンスタンドが廃業した物件があって、そこにしようかとも思ったんですが、商工会の担当者から「この場所で商売は無理ですよ」と、反対されましたんで、あきらめました。こちらが資金を借りる側なんで反対されてはどうしようもないですからね。
自分としては場所はどこでもよかったんです。場所は関係ないと思っていましたんで・・・。
そうしている時にケーキ材料の業者から今の場所を教えてもらったんです。
吉野
どういう印象を持たれましたか?
小林氏
ここしかないと直感で思いました。スーパーのマルイも隣だし、店舗の駐車場も広かったし、ここにしようと即決しました。
ただ、家賃の16万円は思っていたよりも高かったんで、払えるだろうかと心配にはなりました。
大家さんは飲食店には貸さないと言ってたんですが、洋菓子店なら良かろうと了解してくれました。ただ物件を大改装すると言った時には、さすがにしぶりましたが、何とか説得しました。もう、後にはひけない大博打だと思っていました。
吉野
お店のオープンはいつだったんですか?
小林氏
2010年の1月です。6日にプレオープンして、9日に正式にオープンしました。
プレオープンの時には、知り合いに知らせただけだったんで、少なくて不安になりましたけど、9日から12日までの正式なオープンを知らせるチラシは6,000枚ほど新聞のオリコミを使いました。
9日はお客様が来ていただけるんだろうかという不安で不安で・・・ドキドキして迎えました。
吉野
お客様は来ていただけましたか?
小林氏
半端じゃなく多くのお客様に来ていただきました。
もう驚きました。こんなに来るもんだろうかとドカーンとね。来ましたね。嬉しい悲鳴でした。
吉野
プードルという店名にしようと思われたのは?
小林氏
プードルというのはフランス語で「粉」です。
でも、それはありきたりですんで、犬のプードルを連想していただくようにと考えました。覚えやすいでしょう?粉よりも犬のプードルの方が親しみやすいですから。
お店のロゴに使っている犬のプードルのイラストは妻が描いたんです。
吉野
奥様も菓子職人として仕事をされていますね。
小林氏
鳥取から京都の調理師学校に行って、そのまま京都のフランス料理のレストランで3年間勤務してました。
その後、鳥取に戻ってきてニューオータニベカリーに職人として入ってきたんです。そこで知り合って結婚しました。
吉野
ご自分の店をオープンされて売上はいかがですか?
小林氏
おかげさまで売上は順調ですね。うまくいっている方だと思います。地域のお客様には感謝ですね。独立しても苦労している店も多いですからね・・・・。妻も職人として働いているんで助かっています。
吉野
現在、製菓学校も多くて、パティシエやパティシエールになりたいという若者が多いですが、そんな方々に何かアドバイスはありますか?
小林氏
洋菓子店に就職したら3年間は辞めないでくれと言いたいですね。
今も昔も変わらないですが、洋菓子店はかなりハードなんで皆すぐ辞めてしまう。1年2年じゃ菓子作りの面白さは分かりませんから、一通り分かってくるには3年は必要。3年やれば菓子作りが自分に合っているかどうかが分かるんです。
合わなければ、その時に方向転換すればいいと思うんですよ。若いから取り返しはつきますから。
私の場合は、本格的に職人の修行をやったのは「マロン」からですから、28歳でしたんで、もう菓子作るしかなかったんです。
今は、仕事の選択肢もたくさんある訳ですから、3年ぐらいは辛抱してやってみることが大事ですね。
吉野
菓子職人の大切な事って何ですか?

小林氏
丁寧な仕事です。
それは衛生面も含めて丁寧に着実に菓子作りをやっていかないとダメですね。
お客様の口に入るという事を常に考えていないといけないと思います。それが一番大切です。
最初からどんどんできる人はいませんから、時間をかけてでもいいですから、丁寧な仕事をやるという気構えが必要です。スピードは後からついてきます。
知ったかぶりしないでひとつひとつ積み上げていくことが大事です。
吉野
小林オーナーは、小さい頃は不器用とおっしゃってましたが、実は器用なんですね。
小林氏
不器用と思っていたのは、やる気がなかったからできなかっただけです。
父の血を受け継いでいるのでモノを作ることは好きですね。自分がやる気になれるかどうかで決まります。本気でやろうとすれば、器用になれます。
吉野
今は、お父様はお仕事はやられていないと伺いましたけど、分野は違ってもモノ作りの想いは一緒ですね。
小林氏
そうですね。もしかしたら私が、もう少し辛抱して父の仕事を理解していれば工芸師になって、仕事を継いでいたのかもしれませんが、モノ作りという一点では、ケーキと木工品も変わらないと思っています。
間違いなく父の想いは木工ではなくお菓子作りに引き継がれていると思っています。
吉野
今後、お店を多店舗展開したいというお気持はありますか?
小林氏
齢も齢だし、小さい店だけど、ここまでできるんだという店にしたいですね。売上的にも商品のラインナップにしても、他の職人ができない店にしたいですね。
父は有名な伝統工芸師だったんで、私はケーキ作りで評判になる店にしていきたいと思っています。
吉野
今日は、貴重なお話をありがとうございました。
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