菓志道 高市



吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
高市氏
1959年2月25日徳島県阿南市で生まれました。
吉野
小学校の頃の高市オーナーは、どういうお子さんでした?
高市氏
外で遊ぶのが好きな子供でした。
特に水泳や野球に熱中していました。
小学校3年生の時に少年野球のクラブチームに入るためにグラウンドに召集された事がありまして、バッティングや守備を観ていた監督から「おっ、お前やってたんか」と一目置かれたんです。
シェフ
ただ、肩を冷やすので水泳は禁止と言われたんで、水泳をやめるのが嫌で、野球のクラブチーム入りはあきらめました。
吉野
クラブチームは本格的にやりますから、当然そうでしょうね。
高市氏
水泳は得意で、将来の目標は水泳でオリンピックに出ることでした。
夏は毎日友だちと川で泳いでばかりでした。台風が去った次の日は川はにごってはいますが、木などの余計なものは全部流されてしまうんで、橋からどぶ〜んと飛び込んで流れとは逆行して泳いで遊んでいました。
吉野
当時の遊びと言ったら自然が相手ですよね。
高市氏
そうですね。もう、それしかなかったですね。
遊ぶんでも1年生から6年生まで集団で登校するわけですから、いつも一緒です。全員で自然の中で遊んで社会性を身につけた時代だったですね。
当時は学校にはプールがなかったんで夏になると上級生が下の子供たちを引き連れて川や川原で遊びに行くんです。
吉野
実家は何をなさってたんですか?
高市氏
祖父は元々飴職人で和菓子屋をやってたんですが、和菓子だけ作っていたという訳ではなく、たばこと酒以外は何でも売っていた、今で言うスーパーみたいな商店ですね。父もその店を手伝っていて、注文が入ると饅頭や和菓子などを作っていました。20種類くらいの和菓子を作っていたと思います。
吉野
年末の餅つきとか年中行事ですか?
高市氏
毎年の事でした。その頃は、大晦日の夜遅くまで餅をついてまして、餅つきが終わったら床屋さんに行って散髪するんですよ。
幼い頃から除夜の鐘を聞くのは床屋さんでした。それがうちの年越し行事でした。
吉野
実家がお菓子屋だったらおやつ代はいりませんね。
高市氏
ですから中学まで小遣いをもらったことなかったんです。家に何でもありますから、両親は子供には小遣いが必要ないと思っていたんです。
それでも、友だちと遊びに行ったり、欲しいものがあるんで、中学2年生の頃から、高校生の先輩についていってアルバイトをしていました。
吉野
実家の跡を継ぐという気持ちはあったんですか?
高市氏
高校の頃は美容師か板前になりたかったんです。
それに、東京に住んでみたいと思っていましたので地元で実家の跡を継ぐという気持ちはまったくありませんでした。
吉野
東京に対して強い思い入れがありますね?
高市氏
高校2年生の頃に修学旅行で東京に行ったんです。
テレビで観ていて憧れてたんですが、実際に東京に足を踏み入れて思ったんは「絶対にここに住みたい」という事でした。
家にいたら親から「ブラブラするな!」「勉強しろ!」といつも言われていたんで余計に家を離れたいと思っていたんです。
吉野
高校を卒業して、どうされたんですか?
高市氏
千葉にある中央学院大学に入学しました。
吉野
いよいよ憧れの東京ですね。どこにお住まいになったんですか?
高市氏
東京都内ではなかったんですが、千葉の松戸市に高校時代の友達と3人で家を借りました。
吉野
お友達とですか?
高市氏
はい。部屋は8畳・6畳・6畳と3部屋ありましたんで快適でした。
当時のテレビ番組で「俺たちの旅」という中村雅俊主演の青春ドラマがあったんです。3人の若者の青春模様のドラマですが、それを観ていたので、友達と一緒にワイワイ言いながら生活をしたかったんです。若いからそういう事しか考えていなかったですね。
東京の次は、アメリカやヨーロッパに行くと決めて、アルバイトをしながら貯金しました。
食べるものはもっぱら野菜炒めでしたけど、そういう生活が本当に楽しい時期でした。
吉野
大学では何かクラブにお入りになったんですか?
高市氏
空手部に入りました。
吉野
大学で空手を始めたんですか?
高市氏
いえ、空手は中学の頃に始めました。
その当時はブルースリーの映画に人気があり私もフアンでしたんで、それで空手をやりだしたんです。
ただ、大学では自由な学生生活を送りたかったんで規律の厳しい体育系のクラブには入るつもりはなかったんです。
吉野
入る気もない空手に入られたのはどうしてですか?
高市氏
入学式の日に学生服を着て入学式が始まるのを体育館の前で待っていたんですが、学ランを着た人相の悪い人たちから囲まれて「どこの2年生や?」と言われたんです。
1年生ですと答えると「何で学ラン着てるんや」と問い詰められたんで、「何でって言われても、高校の先生が成人式までは学生服が便利や。冠婚葬祭でも使えて、余計なお金も使わんでもいいからと言われたんです」と言うと、「それなら、4年まで学ラン着れる応援団に入れ」と勧誘されたんです。
吉野
なるほど、その人たちは応援団の人だったんですね。
高市氏
そうなんです。
私が応援団に入るのはいやですと言うと「じゃあ、何に入りたいんだ」と聞かれたんで、とっさに「空手です」と答えてしまったんです。
そしたら「空手やったら、うちの部室の隣なんで連れていったる」と言われたんです。余計なことせんでもいいのに・・・と思いながらついていって、成り行きで入るようになったんです。
吉野
なるほど、学生服を着て行ったのが縁ですね。どうでした、空手部は?
高市氏
次の日からハンカチとマッチを用意しておけと先輩に言われたんです。
ハンカチは空手部の先輩の靴磨き用で、先輩の足元にひざまずいて靴を拭くんです。マッチは先輩のタバコに火をつけるためのものです。ライターで火をつけるのはもってのほかで、マッチじゃなかったらヤキをいれられますんで・・・。
何でここまでしないといけないのとは思いましたし、ストレスにはなりました。本当に厳しかったですが、空手をやった4年間で忍耐強くなったのは事実です。
吉野
大学を卒業して、どうされたんですか?
高市氏
父はどうしても跡を継がせたかったんで、大学を卒業したら「学費を出したるから製菓学校に行け」と言われたんです。
私としては大学の4年間は空手やアルバイトに没頭していたんで、先の進路も見えてませんでした。ですから、とりあえず父が言うとおりに製菓学校に入りましたが、すぐに辞めるつもりだったんです。
吉野
よほど、跡を継ぐのが嫌だったんですね。
高市氏
将来、何になりたいという事もなかったんですが、実家に帰り菓子屋をするという気持ちはまったくありませんでした。
製菓学校に入ると同時に二子玉川にある高島屋の中にあるレストランでアルバイトを始めました。ただ、学校に入って知り合った仲間が、とても素晴らしい連中でしたので、その連中と別れるのが嫌で2年間辞めずに通う事ができました。
吉野
家を継ぐとか洋菓子の勉強をするというよりも、学校の仲間からお菓子に対する意欲をいただいたんですね。
高市氏
そうですね。学校には22期生として入ったんですが、その22期生は、今までのどの生徒よりも先生の頭からは離れられない個性ある連中だったんです。
先生は「お前らみたいないい加減なやつらいなかった」とユーモア交じりに思い出話しをしていただけるほど息のあった仲間たちでした。ですから、お菓子作りという事に対しては実家を継ぐうんぬんとは別の意味で興味を持ち始めました。洋菓子を究めてみようという気持ちが出てきたんです。
吉野
その後、どうされたんですか?
高市氏
アルバイトしていた高島屋のレストランの社長さんから六本木にある「フランス菓子パンドラ」という有名店を紹介していただいたんです。
吉野
では、そこに入社されたんですか?
高市氏
私としては神戸あたりの洋菓子店にしようかと思ってはいたんですが、社長からは「神戸にあるものは東京にもある。でも、東京にあって神戸にないものはたくさんある。だから同じ修業するんだったら東京がいい」と言われたんです。
その頃の行きつけの割烹料理店のご主人にも「お世話になっている社長さんのいう通りだ。そんな有名な店はなかなか入れないぞ」という事で、入社するという前提で見学に行きました。
吉野
どうでした。東京の有名店は?
高市氏
とにかく店のゴージャスな雰囲気に圧倒されました。ふかふかの絨毯で靴を脱がないといけないのかなあと思ったほどでした。
ランチタイムが終わった時間帯に店に行って2階のレストランでお話を聞いたんですが、フレンチレストランが始めてだったんで、その高級感に感動しました。
高島屋でお世話になっている社長が「高市を採らないと大変な損失ですよ」と言ってくれたんで、凄くプレッシャーでしたが、入った以上は、徹底して学んでいこうと決意しました。
吉野
東京の一流店で洋菓子を学ぶって事は良い経験をされましたね。
高市氏
そうです。何をするんでも凄いんですよ。
私が入社してすぐにあるイベントがあったんですが、その為にフランスから新進気鋭のシェフを招聘したことがありました。その時には、帝国ホテルやホテルオークラから日本でも指折りのシェフが見学に来られました。
何だか凄い店に入ったなあと我ながら身震いしたのを覚えています。
吉野
フランス菓子の修業はどうでした?
高市氏
工場では、全てフランス語でしたんで、慣れるまでには時間はかかりましたが、製菓学校を卒業してパンドラに入る前に2ヶ月間ヨーロッパを回っていたんで、フランス語に対する違和感は少なかったです。
菓子の修業は厳しい面もありましたが、大学の空手部で上下関係の厳しさには慣れていたんで、耐えられないほどではありませんでした。徹底してフランス菓子の基礎から教えていただきました。
吉野
パンドラさんでは何年勤められたんですか?
高市氏
5年間にわたりお世話になりました。この間は親方の猪俣シェフにはお菓子作りの技術的なものはもちろんですが、フランス菓子の考え方も色々教えていただました。特に20歳そこそこの生意気盛りの私に人としてのあり方とか菓子職人としての生き方という人間的な部分でも大切な部分を教わりました。
吉野
色んな面で影響を受けられてたんですね。
高市氏
今の私の人生観を作り上げていただいたと思っています。
ちょうどその頃に祖父が亡くなったんです。葬式もあるんでとにかく実家に帰りました。
葬式の時に親戚から「跡取りである長男が10年も東京におってどないするんや」と言われたんですよ。「自分の人生やから自分で決めたい」と言ったんですが、親戚も親から言い含められていたみたいで「とにかく帰ってこい」の一点張りでした。
吉野
その時も跡を継ぐのはいやだったんですか?
高市氏
そうです。
その頃は、パンドラを辞めて再度フランスに菓子修業に行くかどうかを猪俣シェフに相談しようかと思っていたんです。
でも、そろそろ自分のワガママも言えんなあとは思っていましたが、実家の跡を継ぐという決心もつかず、東京に戻り先輩に相談したんです。そしたら「一人前にしてもらったんだから何年かはお礼奉公だろう」と言われたんです。
それで、猪俣シェフにお話すると「お前が実家に帰って、このパンドラで培った菓子で地域のお客様に喜んでもらうのがお礼奉公だ」と言っていただきました。本当にありがたかったんですね。
ただ、いきなりすぐに帰るというという訳にもいきません。自分なりにやっておかなければならない事があったので1年間の猶予をもらいました。
吉野
ということは1年後には跡を継ぐために帰る決心をされたんですね?
高市氏
そうです。跡を継ぐって言ってもパンドラでは20人くらいの職人がいたんで、自分がどれくらいの力があるのか、個人店で力を試したかったんです。その経験をせずに実家に帰る事はしたくなかったんです。
そこで、赤坂のTBS近くにあった喫茶がある洋菓子専門店にチーフとして入り、未経験の若いメンバーを教えながらケーキを作りました。その店はオーナーシェフの店ではなかったんで、オーナーは「パンドラの職人さんが来てくれてありがたい」という感じでしたので、それなりのプレッシャーはありました。
吉野
その店のオーナーさんが菓子職人でないのなら洋菓子店でどんなお菓子を出していいのかが分からなかったんではないですか?
高市氏
そうなんです。ただ、その店で以前、シェフをされていた渋谷さんという方から色々教えていただきました。
渋谷さんは埼玉の大宮で個人店を経営されていたんで街場の洋菓子店の商品構成などを教えていただきました。
吉野
どういう事を教えていただいたんですか?
高市氏
東京でも地域によっては商品の構成を変えないといけないという事です。
また店によってもお菓子のラインナップに工夫しないといけないという事を教えていただきました。例えば、銀座や赤坂では求められる洋菓子の質が違うんです。大まかに言えば、銀座では高級な純フランス菓子が受けるんですが、赤坂では庶民的な分かりやすいケーキが好まれるということです。
また店構えでも高級なお菓子が合う店もあれば、高級なお菓子を置いてもさまにならない店もあります。
その店の格に合ったお菓子というものがあるんです。
パンドラは、フレンチレストランと洋菓子店が併設されている一流高級店になりますので、伝統的な高級フランス菓子がマッチします。私がチーフで行った洋菓子店は、喫茶コーナーがある気軽な洋菓子店という雰囲気の店ですので、パンドラで作っていたようなお菓子では違和感がありますので、ラフな感じの分かりやすい要素を取り入れたお菓子にしました。

文字


吉野
なるほど、地域や店の雰囲気によっても違うんですね。
高市氏
渋谷さんもフランス菓子にこだわっておられるんですが、埼玉の大宮の店では、高級志向のフランス菓子だけではなくショートケーキも作られていました。
埼玉の大宮は、私の実家のある徳島と比べて大都会ですが、そこでも分かりやすいお菓子が求められているという事を聞いて、なるほど、フランス菓子というお菓子はある意味日本の中では特殊な部類のお菓子なんだなあと思いました。
実家に帰るときに渋谷さんから「せっかく習得したフランス菓子の感覚がなくなってしまうからから徳島に帰っても年に1度は上京しないといけない」と言われました。やはり私のお菓子作りの基礎はフランス菓子ですから、その地域の嗜好に押しつぶされないようにしないといけないと思いながら帰ってきました。
何だかものすごく気負ってたような気がします。
吉野
その後、徳島にお帰りになるんですね。
高市氏
1987年に徳島に戻ってきました。
吉野
いよいよ実家の跡を継ぐんですね。
高市氏
跡を継ぐという気持ちはありませんでした。できるだけ早い時期に実家から出ないといけないと思っていたんです。
実家は菓子屋と言っても和菓子ですし、店自体も雑貨や食料品などを売っているスーパーみたいな店でしたから自分が思い描いていた洋菓子店とはまったく違いました。菓子屋とスーパーを一緒に経営していくという感覚が理解できませんでした。
確かに和菓子屋だけで家業を続けていくことは困難だったんで父としては、何でも置いているスーパーみたいな店が必要な事だったのかもしれません。でも、私としては洋菓子だけで勝負をしたかったんです。
吉野
そんなスーパーみたいな店で、どういう風に洋菓子を売ったんですか?
高市氏
スーパーの中にショーケースを置いただけでした。そこからスタートしました。
雑貨や既製品のお菓子を売っている棚と一緒のところで売りました。
吉野
高市オーナーの作るお菓子は地元の方に受け入れられたんですか?
高市氏
まったく売れませんでした。
吉野
でも渋谷さんからフランス菓子にこだわるんではなく地元の嗜好に合わせたお菓子作りが大切だと教わったんでしょう?
高市氏
それは頭では理解していたんですが、パンドラで出していたそのままのお菓子を出してしまったんです。
吉野
なぜですか?
高市氏
自分の培った技術で勝負をしたかったんです。
案の定、私のお菓子を見た地元の人には「小さい、甘い、高い」という印象のケーキでした。そして「見たこともないケーキ」だと言われました。
3拍子も4拍子も揃った売れないお菓子だったんです。1日2,000円とか3,000円の売上です。もう泣きたくなるくらいに売れませんでした。
「やわらかいんがシュークリームやろ。高市の店のシュークリームは表面が硬すぎる」と言われました。
吉野
なるほど、硬く焼いたシューにクリームを詰めて食べるという習慣がなかった地元の方にはやわらかいシュー皮のシュークリームが本物だと思われていたんですね。その辺は、改良されたんですか?
高市氏
そうですね。シュークリームに関してはシューの皮をやわらかくしましたが、基本的なお菓子はフランス菓子にこだわったままでした。
吉野
大幅に変えようとは考えなかったんですか?
高市氏
そうですね。お客様のご要望は聞くようにはしていますが、お菓子の全てを変えようとは思いませんでした。
それでも何とか10年はやってきました。
吉野
10年というのは長いですね。もしかしたら立地が悪いのではないかとはお考えにならなかったんですか?
高市氏
それも考えました。しかし、自分が習得したお菓子が売れないのを立地のせいにしたくはなかったし、東京から戻ってきて売れないからよそに行ったと思われるのも嫌だったんです。とにかく何とか売れるというメドがたつまでここで頑張ろうと思いました。
10年やったのをキッカケに内装を変えてみたんですが、どういう訳か、それを契機に売れるようになったんです。
吉野
内装をどういう風に変えたんですか?
高市氏
スーパーの棚を取っ払って洋菓子店を前面に出した内装にしたんです。それにシューケースのバックヤードに工場を配置して、お菓子を作っているのが見えるようにしたんです。言ってみればどこにでもある普通の洋菓子店にしただけなんです。
商品はまったく変えていないんですが、売上が1日1万円がすぐに3〜4万円になり、10万円売れるようになったんです。
きつねにつままれるというのはこのような事です。まるで信じられない事が起こったんです。
でも売れるようになって逆に不安になりましたね。いつまた売れなくなるかもしれないと思うと夜もゆっくり寝れないんです。寝ても夢を見るんですよ。朝店をあけても昼過ぎても夕方になってもお客様が来ないんです。そこで、ふっと目が覚めるんです。
そういう夢を3年は見ました。
吉野
売れない10年間で辛抱強くフランス菓子を作られてこられたので、改装をキッカケに受け入れられるようになったんではないですか?
高市氏
どういう理由なのかは分かりませんが、店の雰囲気と商品構成がうまく合ったのは事実だと思います。
改装して4年間はずっと前年を上回る売り上げでした。
その頃に、移転先に最適な土地の話が来たんです。その時は、いよいよ自分の本当の勝負だなと思いました。
その話があって移転するということを目標に頑張りました。
それから2009年の5月に移転しました。
吉野
他の洋菓子店を見に行って参考にしたことはありますか?
高市氏
ありました。夫婦で休みの日を使ってたくさんの洋菓子店を見て回りました。
その時に話し合ったんですが、自分たちが食べたいもの 作りたいものを作ろうと決めたんです。
「素敵な外観やなあ」とか「センスの良いディスプレーやなあ」と自分らが思うものを中心に店作りをしていこうと思ったんです。
たとえ、多くのお客様で賑わう店でも、自分たちがいいなあとか素敵だなあとか、食べたいなあとか思わないと、それは取り入れないし、取り入れても自分が理解できないのなら、うすっぺらな表現しかできなくなると思うんです。
移転を契機に自分らの想いを表現したお店になりました。
吉野
店名の菓志道 高市の「菓志道」というのはどういう意味があるんですか?

高市氏
菓子職人を志した以上は後戻りができないし、洋菓子の志を持った時にフランス菓子しかないと思ったんです。ですから自分自身、フランス菓子の道を究めてみようと思ったんです。
空手道の厳しさを忘れることなく志した気持ちを忘れたくない。フランス菓子の道で自分自身が負けないようにという思いで「菓志道 高市」と名付けました。
吉野
移転されてから商品構成は変えましたか?
高市氏
基本的な商品は変えてません。
ただロールケーキやシュークリームは改良しました。
フランス菓子を本格的にやっている人に言わせると「ロールケーキとかシュークリーム、ショートケーキを作るのは如何なものか」と言われるとは思いますが、やはり地域のお客様に受け入れられるような分かりやすい食べやすいお菓子は洋菓子専門店にとっては必要だと思います。
その上で、自分が培ってきたフランス菓子の部分をどうやって出していくのかを工夫するのがプロの菓子職人だと思います。
吉野
あくまでお菓子作りの基礎はフランス菓子なんですね。
高市氏
私は、シュークリームの皮の部分はラスクみたいな硬い皮がいいと思っています。その中にやわらかなクリームを詰める。
食べるときにガリッとした食感と中のとろりとしたクリームを楽しんでもらうのが大事だと思っています。
いや絶対に味わってもらわないといけないというのが私のお菓子作りの根底にあるんです。
吉野
若いパティシエ志望の方にアドバイスをお願いします。
高市氏
努力を忘れたらいけないという事です。若い時に遊んで楽したら齢とって苦労します。
どんな事も一生懸命やれば必ず身につくんです。私は、少しいい加減な所があったんで特にそう思うんです。
私は、売れない時代も経験し、自信を失いかけた時もありましたが、自分なりに懸命に努力してきたから何とか店を続ける事ができたんだと思います。
ただ、自分だけの努力だけではなくて回りの方々のお陰でもあったんです。だから、そういう感謝の気持ちも大切だと心から思っています。
結婚して家族がひとり増え、ふたり増えしているうちに、自分ひとりだけで生きているのではないんだなあと思えるようになりました。子供がいたんでPTAの会長までやらせてもらったんは本当にありがたいと思っています。そういう場を与えてもらって自分自身が様々な経験ができ、少しでも成長させてもらっているのを素直にありがたいと思えるようになってきました。そういう気持ちが大事なんです。
自分の努力と回りの人たちへの感謝が必要ですね。
吉野
現在、徳島文理大学で講師をされていますが、どんな経緯ではじめられたんですか?
高市氏
徳島文理大学というのは短期大学なんです。今は4年制大学とか専門学校の時代で短期大学が減る傾向にあるんです。
そこで学校側としても生徒を引き付ける学科を創設したいということでパティシエ科を新設したんです。
そこでお声をかけていただいて始めることになりました。
吉野
講義のサイクルは?
高市氏
毎週金曜日の昼から夕方までの講義です。
吉野
中学生の職場体験の受け入れも長くされているんですね。
高市氏
17年間受け入れしています。
今は家や学校で満足に挨拶できない子供が多いんです。うちでは実際に店に出てもらって「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」を大きな声で言わせています。
最初は声が小さいのですが、だんだん声が大きくなりさまになってくるんです。
そしたら顔つきも変わってくるんです。にこやかになってくる。大切ですよ子供に職場を体験させるのは。
吉野
最近の学校では競争で順位をつけないそうですね。1等賞というのがない・・・もちろんビリなんてありえないのですが。
高市氏
社会に出たらいきなり競争ですよ。学校でぬるま湯につからせて卒業したら極寒に放り出すという教育ではダメです。
最近では、ゆとり教育の弊害が出ています。学力が諸外国と比べ極端に落ちている。もっときっちりした教育の考え方が必要です。
吉野
厳しい環境で自分と向き合う事も大事ですね。
高市氏
それがないと、自分を甘やかす事になりますからね。そういう中では他の人に感謝するという気持ちは生まれません。
厳しい中で頑張っている姿を見て他人は手を差し伸べようと思うんです。
努力しないとダメです。何事にもね。
吉野
今日は、貴重なお話をありがとうございました。
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