吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
乾氏
1964年11月19日徳島県の名西郡(みょうざいぐん)生まれです。徳島でも西の方になります。
吉野
小学校の頃の乾オーナーは、どういうお子さんでした?
乾氏
野球少年で、草野球から始めて、中学、高校まで野球部でした。学校の理科の実験以外は、勉強はキライな子供でしたね。
シェフ
吉野
野球一筋の青春ですね。
乾氏
そうですか、でも野球が楽しかったのは中学までです。
高校では守備はショートで1番バッターでしたが、それはもう、練習がきつくて、厳しくて辛かったんです。
でも3年間はやり通しましたから根性はついたと思います。
吉野
料理とかお菓子作りに興味はあったんですか?
乾氏
そうですね。お菓子作りはしてませんでしたけど、料理が好きで自分で色々工夫して作っていました。
小遣いをはたいて牛肉を買ってきて、独特の味付けのステーキにして食べれなくなったりとかいう思い出があります。
吉野
菓子職人になりたいというキッカケみたいなものはあったんですか?
乾氏
知り合いのケーキ屋さんからクリスマス時期になると売れ残ったデコレーションケーキをくれるわけですよ。
当時はバタークリームでしたが三段のケーキでね。子供心にこれは凄いと思いました。そこからですね。ケーキを作れるようになりたいと思ったのは・・・。
吉野
なるほど、小さい頃の印象が強烈だったんですね。高校を卒業してからは、どういう進路に進まれたんですか?
乾氏
手に職を付けようと思いまして、寿司職人になろうかとも思っていましたが、やはり子供の頃の3段デコレーションの感動が心にあったんで高校卒業後は、大阪の辻調理専門学校に行きました。
その頃は、辻には製菓学校というものがありませんでした。調理学校の製菓部門です。
吉野
ご両親の反対はありませんでしたか?
乾氏
反対はしませんでした。お前はそれしかないだろうと・・・。好きな道だったら頑張れと言ってくれました。
吉野
大阪の学生生活はどうでした?
乾氏
徳島の田舎から出てきたんで、完全なおのぼりさんです。
人の多さとビルの密集のぐあいを見て、住むとこちゃうんやないかと思いました。
アルバイト進学だったんで、中華料理の配達をやりながら、店の寮の4畳半に同僚と2人で住んでいました。同室のヤツとは馬が合って楽しかったですね。
吉野
卒業されてどこに就職されたんですか?
乾氏
大阪市内にあった「ココリコ」というパイ専門店に入りました。
吉野
どうして、そこを選らばれたんですか?
乾氏
就職活動の時に4〜5軒洋菓子店を回ったんですが、その「ココリコ」がお客さんが多かったんです。
土日になると30〜40人行列ができるんですよ。何でここは、こんな行列ができるんだろうと、その理由が知りたくて、そこにしました。
吉野
お客様の多い店に入りたかったんですか?
乾氏
そうですね。どうせなら繁盛店に入って、そのノウハウを知りたいと思ってました。
自分の中に目標があって、29歳までに自分の店を持つ。それまでに結婚して、子供を2人作ってと考えていたんです。
自分の店を持つときに繁盛店のコツがあれば有利ではないかと考えました。
吉野
「ココリコ」さんに入られて繁盛するノウハウは分かりましたか?
乾氏
バランスが良かったですね。商品構成とサービス、お店全体のセンス、そのバランスがよかったんじゃないかと思います。
テイクアウトと喫茶コーナーもあり飲食ができる店でした。
吉野
オーナーシェフの店だったんですか?
乾氏
いえ、そうではないです。チェーン展開の店でした。
吉野
どんなお菓子を作られたんですか?
乾氏
ほとんどがパイです。パイとババロア、カスタードクリーム、フルーツの組み合わせです。
吉野
そこには何年間勤めたんですか?
乾氏
2年間です。途中でアイスクリームの「フエィセル」という店をオープンしたんで、20歳そこそこで、その店の店長を任されました。
ハーゲンダッツアイスクリームがど〜んと出てきた時代なんで、アイスクリームの波に乗ろうと思ったみたいですが、ちょっと違ったみたいです。1年間そこの店をやり、徳島に帰りました。
吉野
と、いう事は何年間大阪で勤めたんですが?
乾氏
「ココリコ」で1年、アイスクリームの店で1年、合計2年くらいです。
吉野
徳島に戻られたのは、どんな理由があったんですか?
乾氏
独立は地元でと考えていたんで、徳島の洋菓子店で勤めて、それから独立を考えていました。
業者の知り合いも欲しかったのもあります。徳島に7店舗を展開していた洋菓子店に入るようにしました。
吉野
7店舗と言えば、相当な人気店だったんですか?
乾氏
そうですね、そこもオーナーシェフの洋菓子店ではなかったんですが、徳島では1番メジャーな店でした。
そこでしばらく働いている内に、もう少し技術を習得した方がいいのではないかという思いになって、別の店に移る決心をしました。
吉野
次は、どこに入られたんですか?
乾氏
大阪の阿倍野区帝塚山にあった「ポアール」です。
吉野
大阪でも有名店ですね。
乾氏
菓子職人の想いのある店から再スタートしようと思いましたから、願ってもない店でした。
吉野
今までの店との違いはありましたか?
乾氏
辻井オーナーのお考えが「何よりも大事なのは商品」というものだったんで、菓子職人としてそれに強く惹かれました。
入って2年間は、チョコレート部門で徹底してチョコレートの扱いとか商品作りを教えてもらいました。
吉野
厳しい店でしたか?
乾氏
お菓子作りに関してはプロ集団でした。30人くらいの職人の集まりで、厳しい面もありましたが、自分としては本当にありがたかったですね。ああ・・・これが本物の職人だと、俺もそのひとりになれたんだと思いました。
吉野
労働時間は長かったですか?
乾氏
いえ、思っていたほどではありませんでした。朝6時から夜の7時まででしたから、モーレツな職場ではありません。
まあ、繁忙期はかなり夜遅くまでやっていましたが、週に1日は休みもありましたから、働き易い職場でした。今でも交流のある多くの仲間もできましたから、そういう意味でも良い職場でした。
「ポアール」に在職している時に結婚もしていたので、入社して7年たった頃に、そろそろ徳島に戻ろうかなと思いました。
吉野
29歳で独立する目標が近づいていたんですね。徳島に戻られて、どうされたんですか?
乾氏
東京で修行された方が経営されていた洋菓子店に入りました。
吉野
お菓子は違っていましたか?
乾氏
自分では、できると思っていましたが、ケーキの内容が違ってたんで、最初はできなかったですね。
店や地域が違うとこんなに違うのかと・・・でも、それが逆に面白いと思いました。コツさえ覚えるとできるようにはなったんですが、オーナーの考え方ひとつでお菓子がこうも違うんだと、いい勉強になりました。
吉野
そこには、何年おられたんですか?
乾氏
1年ちょっとです。
吉野
えっ・・・短いですね。
乾氏
もちろん、もっといるつもりだったんですが、その頃に交通事故にあったんです。
10数箇所を骨折する事故だったんで、半身不随で仕事もできないだろうと医者から言われてました。
吉野
そうですか・・・お辛かったですね・・・。
乾氏
いえいえ、痛かったんですが、辛くはなかったですね。幸いにも半身不随にもならずに3ヶ月で退院できました。
でも、その後、半年間はリハビリでしたので、店を辞めなくてはならなかったんです。
吉野
その後は、どうされたんですか?
乾氏
もう1軒洋菓子店で働こうかとは考えてもいたんですが、それよりも、そろそろ独立の為に動きだそうかなと思いました。
嫁さんにも相談して、そうしようかと話もまとまりまして、まあ、リハビリを兼ねて、店舗捜しに歩きました。
吉野
なるほど、奥さんが賛成なら安心してできますね。
乾氏
嫁さんは、中学時代の同級生だったんです。高校卒業する頃から付き合いだして、自分が29歳までに店を持つというのが夢だって事も理解してくれてなしたから、一緒に頑張ろうとやりだしました。
吉野
資金的なものは、どうされたんですか?
乾氏
貯金なども含めて何とかなりました。事故をキッカケに店を始めてはどうかという天の采配だったのかもしれません。

文字

吉野
場所は、どこだったんですか?
乾氏
国府という、今の店舗から車で10分のところのテナントです。
駐車場も4〜5台停められるスペースがありましたんで、いい場所が見つかったと思い、そこで店をオープンさせました。29歳でした。
吉野
29歳で店をオープンは実現しましたね。どうでした、売上は?
乾氏
自信満々でオープンしましたが、ぜんぜん売れませんでした。
吉野
スタッフは?
乾氏
製造は、自分と嫁さん。それに製造で嫁さんのお姉さんに手伝ってもらいました。それにアルバイトの子が数人でした。
吉野
どういうお菓子だったんですか?
乾氏
「ポアール」で作っていたお菓子を中心とした構成でした。でも、見事に売れませんでした。
値段は高くはなかったですが、小ぶりなケーキでした。シンプルで洗練されていると自分では思っていましたけど、お客様には受けなかったですね。
ひとつのプチガトーをつくるのにも時間がかかるものでしたんで、売れないけど、毎日夜の11時とか12時まで仕事してました。
吉野
何が原因だったのか、分かったんですか?
乾氏
自分では分からなかったんで、業者さんに「うち何で売れんのやろう?」と聞いたんです。その業者さんが「売れるようにしたる」と言うんですよ。
吉野
どうでした?
乾氏
そんな簡単に売れるようにはなりませんでした。自分の人生の目標が29歳で自分の店をオープンする。そこで、終わってしまっていたんです。大阪の有名店の商品さえあれば自然と売れると勘違いしてた事に気付いたんです。これだけ手の込んだ商品ですよ。材料費は高いものを使っているから小さいのはわかって下さい・・・と言っても、それはお客様には関係ないことで、自分の菓子職人の想いという部分を勘違いしてたんですね。それで自分で色々試行錯誤しながら考え抜きました。
それで最終的に自分の想いのあるケーキを作って、それを伝えよう伝えようとせんと売れないんだと・・・・。そう、思ったんです。
吉野
専門のコンサルタントに相談しようとは思われなかったんですか?
乾氏
それも考えたんです。でも、それじゃあ面白さがないなあと言うか、職人として悔しいと言う気持ちもありました。
吉野
なるほど、自分の菓子職人としての想いですね。
乾氏
確かに、コンサルタントが言うように店を新しくして新品の機械を入れて、言われるままにお菓子を作れば売れるかもしれん。でも、「それって菓子職人ちゃうやろ。もっと職人としてお客様に向き合わんといけんのじゃないか」と思いました。
吉野
なるほど、お客様は正直ですね。やはり、それぞれの地域で受け入れられるお菓子というものがあるんですか?
乾氏
うちには売れ筋商品がありませんでした。
もちろんシュークリームもあったし、プリンもあった、ロールケーキもあったんですが、どれも看板商品ではなかった。
シュークリームは、当時1個100円だったんですが、1日20個も売れないんですよ。
とにかく、関西の店に見学に行きました。お客様から多くの支持を受けている店を中心に回りました。
吉野
具体的な解決策は見つけられました?
乾氏
まずは商品の見直しをしなければいけないと思いました。色んな店を回る事で売れ筋商品のヒントみたいか部分はつかめましたんで、まずシュークリームから変えました。
丁度その頃に、そのシュークリームがマスコミに取り上げられてプチ爆発しました。それからシュークリームが評判になって売上も少しづつ上がってきました。それから、ロールケーキも見直すようにしました。
その時に分かったんですが、自分の店の様なタイプの洋菓子店だったら、お客様から求められるお菓子というのは手の込んだプチガトーではなく気軽に食べれるお菓子だったんじゃないかと。
お客様から好まれるお菓子をできるだけ切らさずに作り続けられる事が大切ではないかと思うようになりました。店をオープンして5年は苦労したんですが、それから売上も何とか上げる事ができるようになりました。
吉野
現在の店舗を構えられる準備はいつごろからはじめられたんですか?
乾氏
今の店舗を建てる5年前から候補地捜しを始めました。
前の店には、4〜5台しか駐車できなかったし、店自体も手狭になってきてたんで店を移ろうかなと考えてました。ただ、なかなか良い物件は、そんなに簡単には見つかりませんでした。
吉野
駐車場の事も考えると広いスペースが必要になりますかなら簡単ではないでしょうね。
乾氏
そうこうしている時に、ここはいいなあという物件が見つかったんですが、資金的な部分で色々悩みました。
やっていけるんだろうかと・・・・。そこで、大阪や神戸の同じ規模の洋菓子店を何軒か見に行きました。いきなり行ったんですが、その中のひとつの洋菓子店のオーナーさんが気さくに話を聞いてくれて、徳島のことも知っている方だったんで、「今の店で、もう少し売るようにせなとあかん。でも絶対売れるから、2倍は絶対売れるから」と、色んなアドバイスをもらいました。
吉野
現在の店舗に移られたのはいつですか?
乾氏
2003年の9月です。最終的には、大手のコンビニにするかうちにするかで難航したんですが、うちに決まりました。
駐車場も余裕のあるスペースで6台分は確保できましたし、隣に大きな駐車場つきのスーパーもあったんで、お買い物のついでに来ていただけるような環境でもありました。
店舗自体もかなり広くなったんで、これは正念場だなと気を引き締めました。
吉野
オープンセールでのお客様の出足はどうでした?
乾氏
2日間やったんですが、大失敗でした。想像してた以上のお客様に来ていただいたんで、その数の多さに対応しきれなくなったんです。
新聞のオリコミちらしを配ったんですが、予想以上の反応でした。並んでいるお客様に商品が全て行き渡らない状態で、せっかく30分40分待っていただいたにも関わらず、お菓子がお渡しできないという失態をしてしまったんです。
怒って帰るお客様が多くて、大変ご迷惑をかけました。最悪のオープニングでした。甘かったですね。
吉野
その後、お客様の反応はいかがですか?
乾氏
ありがたいことに順調で多くのお客様に来ていただいています。やはりお客様と真剣に向き合って苦労した事が実ってるんだと思っています。
最初の店で、そこそこ売上を上げていたら、そこで満足してしまっていたと思います。
吉野
なるほど、乾オーナーはご自分で悩んだからこそ成長することができたんですね。
乾氏
夫婦二人で、ですね。今でも最高のアドバイスを家内からもらいます。
吉野
若いパティシエの卵の方々にアドバイスをお願いします。

乾氏
お菓子作りは楽しいと思って若い人は入ってきます。
やって楽しんです。でも、それが、いつか当たり前のようになってくる。その次に新しい楽しさがあるんですけど、その次まで続けない。途中で飽きちゃうんです。
そうなるためにも2年間はお菓子作りに没頭して欲しいんです。
最初どういう想いで入ってくるかです。要は、本当に菓子職人になる覚悟があるかどうかなんですね。
吉野
乾オーナーにとって菓子職人にとって大切な事はなんですか?
乾氏
強い思いを持つことです。
先ほども言いましたけど、自分は29歳で自分の店を持つことを目標に仕事してきました。
そして、それが実現すると、目標がなくなってきたんです。そこが最終ゴールになっていたんです。だから売れなかった。
今は、ひとりでも多くのお客様に喜んでいただくお菓子を作っていかなければならないという目標にしています。
これだけ、お菓子を含め物が溢れている時代は、単にお菓子を並べているだけでは売れるわけないです。その為に努力は惜しまないという考えです。
吉野
なるほど、ひとりでも多くのお客様に喜んでいただくお菓子を作るという目標に対して強い思いを持つことが大切なんですね。
乾氏
それがないと漠然としたお菓子になってきます。
今まで修行してきたお菓子をそのまま出しているほうが確かに楽は楽ですが、しかし、それでは想いが入らない。
惰性で作っても職人の想いの入ったお菓子はできません。そのお菓子を作るのに自分で素材を見つけてくるとか、その素材を生産している方々とお話しするとか・・・ひとつのお菓子を作り上げるのにも職人としての想いがないといけないという事を売上が少ない時代にさんざん味わいました。
だから、お客様に来ていただくためには、ひとつひとつのお菓子にどれだけ自分の想いを入れていけるかが大事だと思っています。そういうお菓子を作っていると自分が嬉しくてスタッフやお客差にも伝えたくなるんです。そういう自分自身の喜びがスタッフにも伝わり、お客様にも伝わる様に思います。
吉野
なるほど、同じ様なお菓子でも想いが伝わるお菓子もあれば、想いのないお菓子もあるんですね。
乾氏
うちで出している「恋してプリン」という商品があるんですが、これに使う卵が凄いんです。
徳島の木屋平という所で放し飼いにされているストレスのない鶏が生んた卵を使っているんです。価格は高いんですが、でも生産者にお話を聞くと並大抵なご苦労ではないんですよ。鶏に与える餌も既製のエサではなく自家配合というこだわりようです。
その人の話を聞いていると「想いが違うなあ・・・プロやな・・・いい人やな・・・」と共感できるんですよ。絶対に、この卵を使ってお菓子を作ってみようと思いました。
吉野
それを使うことで想いが入るわけですね。
今日は、貴重なお話ありがとうございました。
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