田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃の好きな科目と、
熱中した事や趣味はありますか?
廣瀬氏
昭和39年9月1日、佐賀県出身です。
好きな科目は社会、図工、体育で、クラブは
お上品な柔道です。
柔道部には中学校から高校まで所属していました。
柔道では金鷲旗とか出ましたね。
あと、趣味は子供の頃から乗り物ですね。 二輪も四輪もジェットスキーも何でも来いです。
ジェットスキーは23歳くらいから、単車は小学校の頃からです。 暴走族じゃないですよ。
シェフ
田中
それでは高校卒業されてからは?
廣瀬氏
東京の専門学校に行いきました。
3年くらい修業というか勤めて、実家が和菓子屋なんですが、親父がその頃、倒れまして、それで佐賀に戻ってくる事になったんです。和菓子屋をしながら洋菓子を勉強して、そしてお店を出す前に研修とか、ヨーロッパには20歳の時に3ヶ月くらい、いろいろ見て回りました。それでお店を出す前に、知り合いのケーキ屋さんに研修など行かさせて頂きまして、31歳の時にお店をオープンして現在に至るです。
田中
最初にお菓子の専門学校を卒業されて、就職されたのは東京ですか?
廣瀬氏
実家は佐賀で和菓子屋をしていましたので、それから実家に帰って、そこで和菓子と洋菓子をやり始めました。
でも和菓子がだいたい専門ですから、今でも和菓子の部分を洋菓子に取り入れたりします。

僕はもう、専門学校の時の先生が「どっちやりたい?」と聞かれた時に「やっぱり洋菓子です」と答えて、その先生が当時、和菓子で結構有名な方だったらしくて、「和菓子をやった方がいいよ」と言われてその時、素直に受け入れたんです。
当初は和菓子の方に進んだんですけど、結局、洋菓子の方に変更しました。
それで、そこを卒業して東京の菓子屋に行って、3年くらい勤めさせて頂きました。
田中
その後、お店を出すまで、どちらで修業されました?
廣瀬氏
あとは、もう家に帰って来て、知り合いや先輩の所で研修程度です。3週間とか1ヶ月とか。
田中
お店オープンされたのはいつですか?
廣瀬氏
資金がなかったので1年半くらいの間に高額取れる業種の方に行って、それでもあまりお金なかったですけど「やっちゃおう」みたいな感じでお店を出しました。
田中
この場所に決められたのは、やはりいろいろ探されましたか?
廣瀬氏
いろいろ探しましたね。
当時はここの周りが全部、田んぼだったんです。何もなかったですね。
社会保険所がポツンとあって、このマンションを建てる基礎もやっていませんでした。
それで実測と言うか計測しますよね。
その時に何か「ここ良いなぁ〜」みたいに何か感じて、初めここは、先に借りられていたんですがキャンセルが出て借りられるようになって、それでここでお店をやる事になりました。
今は周りにこんなにたくさん出来てますけど、 当時はお店といったらこのマンションの一階のコンビにとかがあったくらいですね。
店舗という店舗は一切なかったんです。
田中
お店の名前の「くらら」ですけど、あの「ハイジ」のクララですよね?
廣瀬氏
あのー、はじめは、横文字で「パティスリー○○」とかつけたかったですけど、型にはまっても元々「知名度」がないので、出来るだけ覚えてもらいたいという想いもありましたし、それで「クララ」と言う、お嬢様が足が不自由だけど最後は立てるようになって笑顔が出てきて、自分もそうなりたいと、自分にも「ハンディ」があったので最後は笑って歩けるようになりたいなという想いと、先程の覚えてもらいたいというので、カッコつけづにこの名前にしました。

よく「お前の顔には似合わない」とか言われますけど、よしじゃあ「くらら」で行こうと決めて、だから、そんなに深い意味はないです。
ただ「前を向いて上を向いて」歩きたいという事です。

文字

田中
最初は何人でお店を始められたんですか?また、どうでしたかオープン当初は?
廣瀬氏
初めは、自分と家内と家内の妹と、3人です。
全然売れなくて、見事に売れなかったですね。

メインになる商品もなくて、その頃は一人で作っていましたので、普通の苺ショートとか普通のやれる分だけで、どうしても一人だとやれる事が限られてきて、計量から掃除から作業場は自分一人で全てやっていました。
そうですね・・売れない日々は2年くらい続いたかなぁ。正直作るより捨てるほうが多かったですね。
田中
では徐々に売れ出したというのは何かきっかけがあったんでしょうか?
廣瀬氏
それがですね。
今、思い返せば「このお菓子で」とかはなかったんです。
ある日、突然お客様がバッと来て下さる様になって、それが繰り返しあって、数字で言えば1日1万くらいしか売れていなかったのがある日突然5万売れるようになって、それが6万、7万となって、また突然1日10万売れるようになって、それにまた上乗せされて、という感じです。それが何でなのか、正直分からないです。

でもオープンして3・4年経った時に「売り上げを上げたい」という思いから、何か看板商品をやろうという事で「シュークリーム」を作るようになったんです。
それで1年後くらいに結果が出だして、一番多い時は1日1,400個とか売れたんですが、結局シュークリームに追われて他の仕事が雑になってきて、これじゃダメだと思い直して、今は1日500個限定にさせて頂いて、しっかりお菓子作りをやろうとなり、今、現在まで来ました。

田中
菓子職人にとって大切な事は。
廣瀬氏
ハートです。精神と思います。折れない気持ちです。
技術というのは時間が解決する事なんです。
1日は1日の結果、1ヶ月は1ヶ月、1年は1年、どれだけ頑張ったかというのは結果があとから付いてきますので、サボればサボった分だけ、頑張れば頑張った分だけ、
ですが精神論は時間じゃないですもんね。
やっぱり繁忙期に入ればうちの子たちも、毎日平気で2時3時まで仕事になります。
その中で、自分に勝つか負けるかじゃなですかね。
ヘビーな言葉かもしれないですけど、うちの子たちに言うのは「自分のため」と言うのであれば、まず「人のため」にやれと、人のためにやるのが俺たちの仕事なんだから、お客様のためにやれよと、僕はそう言います。
もちろん自分もへこたれる事ありますが、それでも前向きにやっていくのが大切だと思います。
田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。
廣瀬氏
人として、人間としてやる事。
僕もまだ若輩ではありますが、年を重ねてきて、やっぱりいろんな人、目上の人とか社会で経験を積んできた人から言われる事もありますけど、やはり「人のために」というか自分のためだけではなく「人のために」というのは見えない努力が必要なんだよ。
と教えて頂いたんですね。僕も年をとってから最近感じることです。

若い頃は、言い方悪いですが「イケイケ」じゃないですけど、良く言えば「すごい前向き」でした。
「石橋を叩いて渡れ」という言葉がありますが、私は「石橋が崩れる前に渡りきれ」というような性格でしたから、
「押してダメならもっと押せ!」みたいな。

「引く」という事をあまり知らない、まぁ前向きというか自分のワールドが大きくて、自分の良い解釈なんですけどね。
最近思うのは、若い子たちに夢がない。漠然とした言葉も言えない。自分の想いを伝えられない。
それじゃあ、やれないし只ペラペラしゃべればいいとかではなくて、やっぱりお菓子に自分の想いをこめてお菓子で表現するのが
職人だと思うんです。
だからそうする前に自分の考えている事、思っている事を伝えるように出来たらいいと思います。
とにかく自分との戦いだから、自分に勝つという事ですね。
田中
本日はありがとうございました。
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