田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃の好きな科目と、
熱中した事はありますか?
楠本氏
1965年12月10日生まれ、
出身は福岡県北九州市です。
子供の頃、好きな科目は算数と体育、図工でした。
小さい頃は社宅に住んでいたので学年関係なく、ガキ大将がいて、その下にぞろぞろ付いて回って、いろんな遊び「ケイドロ」とか「缶けり」「鬼ごっこ」基地作ったりとか自分達で工夫しながらの遊びをしてました。
シェフ
中学校までは、本気でパイロットになりたくて勉強をしていました。
高校の頃は喫茶店や肉体労働などをして、とにかく遊んでばかりで、もう学生時代はちゃらんぽらんな生活をしていました。
そのせいで、卒業するのに4年もかけてしまいました。
田中
パティシエの修業は高校を卒業されてからですか?
楠本氏
はいそうです。高校在学中に将来は「手に職をつけたい」との思いが昔からありました。
友人は大学や専門学校に行ったり、料理人になったり、理容師、美容師になったりしていたのですが、当時はあまり菓子職人というのもメジャーではなく、お菓子の専門学校も僕が卒業した頃に初めて出来たくらいの時代でしたが、卒業後は専門学校には行かず、手に職をつけるなら現場が1番だという考えだったので、福岡のフランス菓子16区さんを紹介して頂きました。
田中
フランス菓子16区には、高校を卒業して面接に行かれたんですか?
楠本氏
いいえ、高校3年の夏に面接に行きました。その時、親も一緒に面接だったんですが、「本当にこの世界はキツイぞ、しんどいぞ」と、「やめるなら今のうちだぞ」と、本当にそういう感じの面接で始まりました。
「本当にやっていけるのかもう一度よく考えなさい」と言われました。
ただ、面接の時に三嶋さんから感じるものがすごく強くて、この人だったら自分の将来をお願いしたい、そういうすごい魅力を感じたので、一層「ここに入りたい!」という気持ちが強くなりました。
田中
19歳でフランス菓子16区に入られて、最初はどうでしたか?
楠本氏
16区がオープンして3年半くらいたった時に僕が入社しました。
製造は僕の他に、三嶋社長も入れて9人いました。

最初はとにかく右も左も分からない世界で、卵がなぜ立つのかも分からないし、生クリームが立つ理由、道具の名前も何もかも分からない状況でした。
確かに朝から晩まで大変でしたけど、不思議と苦労とは思いませんでした。
とにかく、今が頑張り時だと、がむしゃらでした。
まず最初はお店の販売と同時にオーブンの焼き物のセクションに入れて頂きました。
夕方からお店が閉店して片付けが終わるまで販売の仕事をして、今度はまた製造に戻って教えてもらうという感じでした。

現在もそう変わらないですが、やっぱりこの世界は労働時間が長いですから、僕が入った頃、先輩たちはもう「スーパーマンか!」と
思いましたよ。なんという体力の持ち主だって。
でも不思議と慣れてくるもので、だんだんと自分にも体力がついてきて、大丈夫になりましたけどね。

最初は辞めたいと思う事もありましたけど、それは自分で選んだ道だからそう簡単に辞めて帰るわけには行かないし、やっぱりお菓子が好きだったんですね。
16区には旧店舗で6年、新社屋に移ってから6年、トータルで12年いました。
田中
12年間ですね。16区さんで修業された方は、皆さん長いですよね。
やっぱり16区さんの魅力というのがあるんでしょうか。
楠本氏
確かに皆さん長いですよね。
16区では、やはり三嶋さんに就いて毎日過ごしていますから、結局1年や2年ぐらいじゃ吸収しきれないんですよ。
お菓子作りは、基本的な事を教えてもらえれば誰でも作る事が出来ると思うんですけど、三嶋さんの人生観や考え方だとかそういうもの、人間性というか人としての生き方みたいなものを勉強すると、そう簡単には、数年程度じゃわからないと思います。
最低10年ぐらいはいないと。
それでもまだまだ吸収しきれてない部分があるとは思いますけどね。
それぐらい魅力的な人です。

文字

田中
自分でお店を出そうと思われたきっかけなどお聞かせ下さい。
楠本氏
31歳まで16区にいましたので、30過ぎた頃からはもう「数年後には独立出来たらいいなあ」という思いはありました。
でもそういうのはタイミングもあるので、たまたまその時期に独立出来たという感じですね。
僕の父はずっと転勤族で千葉や大阪など転々としていたのですが、生まれたのも高校を卒業したのも北九州だったので
北九州が地元という感覚があり、店を出すなら北九州にしたいと場所を探しました。

そして決めた店の場所が今の所から500メートルくらいの、小倉北区の中心に近い所で、はじめは郊外に出そうと思っていたのですが、なんとなく北九州という土地柄を自分が感じている中で、お店の名前が広まるのも、やはり中心に近い方が早いかな、との思いがあったんです。
それで1998年1月32歳の時に旧店舗の場所にオープンしました。
田中
オープンの時は何人でやっていらしたんですか?また、オープン当初はどうでしたか?
楠本氏
アルバイト、販売スタッフ、自分と嫁さんも全部含めると、10人くらい、製造が自分を入れて4人です。
1日に10万切る日もあり、大丈夫かなと思う日もありました。
自分がいた16区はとってもお客様が多いお店でしたので、自分でお店を出してみるとお客様の来店数など全然違うので、
お客様が店にいない時間が非常に長く感じました。
お客様に来て頂けるのが本当に有り難いという思いでいっぱいでした。
今日はお客様来てくれるかな〜と、いつもドキドキしながら店を開けていました。
ケーキを作っては捨て、作っては捨て、という頃もありました。
田中
オープン当初はメインの商品は何かありました?
楠本氏
いいえ、オープンの頃はメインの商品はありませんでした。
ただ、口コミでだんだんロールケーキが売れるようになってきて、今ではロールケーキがうちの看板商品です。
シュークリームやケーキはひと通り全部出していましたが、ロールケーキが売れるようになればいいなとは、強く思ってはいませんでした。
田中
それではロールケーキが売れるようになって、相乗効果で他のケーキも売れるようになったんですね。
楠本氏
そうですね、きっかけはロールケーキですね。
だいたい3年目でぐぐっと売れ始めました。
オープンしてから最初の2年くらいは、やっぱり試行錯誤の連続で、商品構成を変えてみたりだとか色んな事をしましたけど
とっても苦しい2年間でした。
3年目から上がり始めました。ロールケーキが引っ張っていった感じですね。
田中
お店の名前はやはりオーナーの名前から?
楠本氏
そうです。本当は自分の名前を付けたかったんですけど、普通に克実だとインパクトがないので、お菓子屋さんっぽく、
果物を摘むというので当て字で「果摘」としました。オープンした時からこの名前です。
田中
こちらに移転されたのはいつですか?こちらに移ろうと思ったのは何故ですか?

楠本氏
昨年2007年の10月にグランドオープンしました。
準備期間は4ヶ月くらいしかなかったんです。
旧店舗が手狭になっていた、というのと、後はもう車の止めにくさですね。
駐車場は一応あったんですが、お店の前の交通量がけっこう多くて、イベントの時などは近隣にすごく迷惑をかけていましたので、
移店が決まる2、3年前から移転を考えていました。

郊外にポンと移って、土地を買って建物をたてて、と色々考えていましたが、なかなか良い物件がなくて、そのままズルズルと流れていた時に、この場所の話が来ました。

本店は別で商業施設にお店をかまえる、というのは見て来ましたが、こういう所に本店を完全に移店してしまうというのは、どうなんだろうかと、ちょっと不安ではありました。
でも前のお店の立地条件からすると、全然違い、確かに500メートルくらいしか離れていませんが、
旧店舗は会社や事務所がすごく多い地域で、住んでる人はあまりいませんでした。
今の場所はマンションがまわりにたくさん建って、当然お子さんも多いですし、駐車場もしっかりあるので決心して移転しました。
多くの方々に相談にのって頂きました。
賛否両論いろいろありましたけど、理屈や前例ではなく今感じとれる、目に見えない何かを感じていたのでそれを信じて行動に移しました。
田中
菓子職人にとって大切な事は?
楠本氏
菓子職人にとって大事な事は、飽きずにいつまでもお菓子が大好きな人でい続ける事。
好きじゃないと出来ない仕事だと思います。
田中
これから菓子職人になろうと思っている人に何かアドバイスがあれば。
楠本氏
それは、何事も自分を信じて、努力と挑戦を忘れない事ですね。
三嶋社長からいつも言われていましたけれど、「当たり前のことを当たり前に出来る人間になれ」と、それはいまだに肝に命じてやっています。
だから、まずは何が当たり前かを理解して行かないといけないと思います。簡単なようで難しいですね。
田中
本日はありがとうございました。
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