吉野
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
楢崎氏
昭和56年1月12日に宮崎で生まれました。
母の親戚が宮崎に居たもので、そこで出産しました。
育ったのは神奈川の川崎です。
父は、当時川崎の洋菓子店でパティシエをしていたんですが、私が小学校に上がる前に父の出身地の福岡に移り住みました。
吉野
お父様はパティシエをされていたんですね。
シェフ
楢崎氏
父は高校を卒業して福岡の「ロイヤル」に就職しパンや洋菓子の製造の仕事を7年していました。
その後、東京と川崎で洋菓子屋で働いていました。
吉野
勇人さんは子供の頃はどういうお子さんでした?
楢崎氏
内気な子供で、絵を描くのがすきでした。
吉野
お父様は、筑紫野市でボン・コアンを開店されるのですが、パティシエになろうと思ったのはいつごろですか?
楢崎氏
私が小学校5年生の頃に父がボン・コアンを開店したのですが、その頃はケーキ屋になると漠然と思っていたんです。でも朝早くから夜遅くまで両親とも忙しくしてましたのでケーキ屋は大変な仕事だなあと感じていたので何となく別の道に進みたいと思っていました。
高校を卒業する頃になってコンピュータの専門学校に行くことにしたんです。そのことを父に打ち明けると反対されました。
吉野
お父様としては勇人さんに跡を継いで欲しかったんですね。
楢崎氏
それは子供の頃からずっと言われてました。高校生の頃から店の仕事を手伝わされましたが、ほとんどが雑用でした。
クリスマスの時など苺のへたをとったりとかだれでも出来そうな仕事なんです。
父は根っからの職人でしたので製造スタッフの手前、素人である私にはケーキはさわらせてくれなかったんです。
だから仕事を手伝っていても面白くありませんでしたね。
それと毎日同じケーキを作って同じことの繰り返しで、それも嫌になった原因でした。
今から思えば勝手なことを考えていたなと思いますけどね。当時はそういう風にしか見れなかったですね。
吉野
そんな勇人さんが洋菓子に惹かれるようになったキッカケは何だったんですか?
楢崎氏
専門学校を卒業して東京のコンピュータ関連の会社に入りました。それなりに充実した日々を送っていたんです。
東京には洋菓子店が多く休みの日に菓子屋の血が騒ぐというか・・・ケーキの事が気になって色んな洋菓子店に行きました。
すると父が作るケーキとは全く違うケーキが並んでいるんです。
「ケーキってこういうものだ」という固定概念が吹き飛んでしまいました。ケーキって自由なんだ。何でもありなんだと理解しました。
幼い頃から絵が好きだったこともあり、ケーキ作りが自分の感性でやれる仕事だと感じて、これなら自分でもやれそうな気持ちになってきました。それから色々考えに考えたあげく洋菓子を徹底してやろうと決めました。
吉野
それで、どうされたんですか?
楢崎氏
親元の福岡や東京で洋菓子店の修行するよりも逃げ場のない場所に自分を追い込もうとしました。
洋菓子といえばフランスという考えがあったんで、フランスで洋菓子の修行をしようと思いました。
そこで父に電話をして「洋菓子の修行のためにフランスに行かせてくれ」と言ったんです。
父は私がやっと菓子職人になる決心をしたわけですから反対する理由もありませんでした。
そこでフランスにいる知人の息子さんを紹介してもらって、そのつてを頼りに24歳でフランスに渡りました。
吉野
いきなりフランスですか?
楢崎氏
語学学校と国営の職人を養成する学校に入りました。
職人養成学校というのは菓子職人だけではなく美容であったり料理人であったり、肉屋であったり、そういう専門職の職人を養成する学校です。そこで洋菓子の基礎を8ヶ月ほど習ってから知人の息子さんが勤務している「オリヴィエ・バジャール」という洋菓子店に勤めました。
カタラン地方のペルピニャンというスペインとの国境近くの田舎町の店でした。
そこではインターナショナルスクールパティスリーという製菓学校も併設していたので、そこの学校に入りました。
その学校は当時は素人向けの学校ではなかっし、言葉の壁もありました。
本当に食らいついていくだけで大変でした。
吉野
凄い店に入られたんですね。
楢崎氏
オリヴィエ・バジャールは1993年に27才の若さでM.O.F試験に合格し、当時史上最も若いM.O.F.パティシェとして話題となりました。
1995年に「U.I.P.C.G.ワールドチャンピオンシップ」で優勝され世界チャンピオンにもなった方です。
その他にも数多くの国内、国際コンクールでの入賞経歴をお持ちです。
現在は「国際指導者」として世界各地でお開催される講習会の講師をはじめ、国内外のコンクールの審査員を勤めるなど、今、最も注目されてぃるM.O.F.パティシエのおひとりです。
M.O.F.は国家最優秀職人賞で、フランス文化の最も優れた継承者たるにふさわしい高度の技術を持つ職人に授与される称号です。
その名誉は日本の「人間国宝」に相当するものと言われています。
吉野
日本の洋菓子とはまったく違っていたんですか?
楢崎氏
日本のケーキっていう感じではありませんでした。
使う果物も個性的で香りや酸味が強かったり苦かったり、とても生では使えないんです。
ですからソテーしたりして加工してお菓子の素材として使います。フルーツの扱いがとてもうまいんです。
日本みたいに美味しさが完成している果物を生で使うという考え方ではありません。
吉野
フランスの伝統的なお菓子が中心でしたか?
楢崎氏
もちろん伝統を重んじ基本に徹していますが、日々進化していく姿勢も大切にしています。
伝統と進化とをうまく融合させたお菓子作りです。今のフランスの主流はそういう考え方が多いですね。
伝統的だけなお菓子では受け入れられないと思います。
吉野
日々の食生活はいかがでした?
楢崎氏
通常は自炊していました。週末は地元のレストランに行きましたが、サラダや肉が多かったですね。
素材の味を活かすのでソースの味付けは薄くて肉自体も噛みごたえがあってあまり馴染めませんでした。
それに比べて日本の肉は美味しいと感じましたね。
日本は果物にしても肉にしても、素材を追求しそれ自体を磨き込んで美味しくしていくという文化ですが、フランスは個性ある素材を組み合わせて美味しいものを作るという文化だと思います。
フランスには日本食レストランがあったので、それなりに美味しかったですね。
スーパーには1本300円程度で美味しいテーブルワインがありました。ワインって特別なものではなく日常的に消費されているものという印象でした。
吉野
オリヴィエ・バジャールには何年間おられたんですか?
楢崎氏
3年間です。
言葉の壁はありましたが、私の場合は他店で修行していない分、まっさらな状態でしたのでお菓子作りの習得は何の偏見もなくできたと思っています。
吉野
その後は、どうされましたか?
楢崎氏
帰国して東京のフランス菓子専門店で勤めたのですが、日本の洋菓子店には馴染めませんでしたので3ヶ月で辞めて福岡に戻りました。
吉野
日本とフランスの洋菓子店って違っていましたか?
楢崎氏
そうですね。東京で勤めた洋菓子店が特別だったのかもしれませんが、年功序列が厳しい店でした。
フランスでは実力主義ですので、凄い技を習得してやろうという気にもなるのですが、東京の洋菓子店では、あまり技術的に高くない人が仕切っていたので、失望もありました。
やはり自分が尊敬できない人の下で働くことが嫌だったんです。私たちはサラリーマンではなく、職人ですから。
それで福岡に戻ってボン・コアンに入りました。


吉野
ボン・コアンのお菓子はフランスとは当然違うのですが、違和感はありましたか?
楢崎氏
それは理解していましたが最初は父とも衝突はありました。
はじめはボン・コアンのケーキを作る事から始めました。ボン・コアンのケーキは軽くて1個食べればもう1個と食べれるケーキです。
フランスにはロールケーキやシュークリームもありません。軽いタッチのお菓子がないんです。
ボン・コアンのケーキはフランスの華やかな色の複雑に素材を組み合わせた重めのケーキとは違います。
吉野
飴細工が得意ですね。
楢崎氏
現在も製菓学校に教えに行っているんですが、飴細工はフランスで基礎を習得して、あとは自分で技術は積み上げてきました。
フランスでは仕事が終わり飴細工の練習をしていたら先輩から「こんなもん飴細工じゃない」と言われたんですが、そんな言葉に負けずに作り続けていたら「お前凄いな」と認めてくれたんです。
スタッフも「これは凄いぞ。教えてくれ」と言われるようになりました。
それまでは何もできない日本人という目で見られていましたが、それで一目おかれるようになってからは仕事が楽しくなりました。
フランスでは実力があれば認められる社会です。ただ飴細工は壊れやすいし湿気に弱いですから湿度の高い日本の気候では、管理が難しいですね。
吉野
飴細工の需要はあるのですか?
楢崎氏
ありますね。母の日にバラの飴細工が好評でしたので、ボン・コアンのひとつのアイテムとして作り続けていきたいですね。
吉野
フランスのお菓子ってとても甘いという印象があるのですが。
楢崎氏
フランスのお菓子にとっては砂糖って重要な素材です。
フランスのプチガトーは酸っぱい苦い個性のある果物を加工して作る場合が多いので、その個性を殺すも活かすも砂糖の分量が大事です。砂糖を減らすと個性ある素材を活かせないんです。砂糖を減らすとどうしても味の薄いものになるんです。
自然のクセのある果物や素材をいかにして美味しいお菓子に作り上げていくか。そういうお菓子文化が日本より高度に発達していると思います。砂糖は使うけど酸味を加えて甘さを抑えるとかの工夫もします。
また砂糖は水分をつかんでくれるので、水っぽくならずにすみますしね。でもお国柄がありますので、今はコテコテのフランス菓子から少しづつ変えてはきています。
しかし、今からはボン・コアンでもフランス的なお菓子作りの方向性は出していきたいとは思っています。
吉野
日本とフランスのお菓子作りは違いますか?

楢崎氏
フランス菓子が多くの様々な素材の組み合わせを追求していくスタイルですが、日本の技は素材をいかにして美味しいお菓子に仕上げていくかなんです。
日本の菓子作りから見てみると父の技術は凄いものがあると感じています。
素材の特性を活かしながら素材のブレンドの仕方や焼き方次第で色んな美味しさを作り出しています。製法の妙と言うか、お菓子を磨いていくという感性は凄いと思います。
同じ原料でも窯の温度の調整をして絶妙な焼き加減でまったく違う食感や味になります。
特にポンプチチーズは秀逸です。蒸気を使うので窯にゆっくり火を入れるカンどころが私にはまだできません。同じレシピや製法でも父のようなポンプチチーズはできません。
現在のところは焼くのは父しかできないですね。
カンと言えばそれだけですが、職人のカンですね。毎日、父の凄さを目の当たりにしています。
ただ、私は父と同じ道ではなく、フランス菓子を基盤にした新しい別の道を切り開きたいと思っています。
吉野
菓子職人にとって大切な事って何ですか?
楢崎氏
耳を塞がないことですね。何でも細かなことでも吸収していかなければならないと思います。
職人としての経験や技も大切ですが、お客様の言われることを素直に聞く姿勢がもっとも大切です。時には変えていくことに対しても柔軟でなければならない。自分が美味しいと思ってお客様にお出しするのは最低ラインです。
ただお客様から受け入れられなければ引っ込める。まずは地域の方々に喜んでいただくために色んなご意見を聞くということは職人にとっては大切です。
吉野
パティシエを志す若い人が多いですが、アドバイスがあればお聞かせください。
楢崎氏
将来、自分がどうありたいかをしっかり持ってないといけないと思います。
菓子職人は体力的にはかなりハードな仕事なので、それに負けてしまう方が多いですね。
店を持ちたいとか、お菓子教室を開きたいとか、何でもいいから自分がなりたい明確な目標や将来像を描くことが大事だと思います。
吉野
今日は長時間ありがとうございました。
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