田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?
鷲埼氏
昭和38年9月3日、佐賀郡諸富の生まれです。
小学校の頃、当時の遊びと言ったら、ボールと棒切れと三角ベースと広場があれば、近所のお兄ちゃん達と野球でしたね。野球熱が盛んな街で、小学4年生からは地元の「諸富北ライオンズ」というクラブチームに入りました。
指導者の方もしっかり教えてくれていたので、大変だったんですけど、そこで精神面とかを鍛えて頂きました。
先輩も立てないといけないし、みんな上手だし、レギュラーになりたいし、そうしたらどうするかという事を子供なりにも教わったような感じです。
シェフ
レギュラー争いも熾烈で暗くなるまで一人で練習してました。でも中学になった時に肘を痛め、投げれなくなってしまって野球を断念しましたが、あきらめ切れず、高校になって再び野球をしました。
田中
それで高校を卒業されて、お菓子の学校に行かれたんですか?
鷲埼氏
そうですね。親には大学に行けって言われてたんですけど、僕としては大学の4年間が無意味に思えてきて、自分で技術を身に付けて働きたいと思ったんです。 お菓子も好きで、高校の時にお菓子に対する興味を持ち始め、昼休みにも学校を抜け出して、お菓子屋さん巡りを友人としていた程でした。 だから高校を卒業して、大阪の辻調理専門学校に入学したんです。

僕達の時には製菓学校ではなかったんで、和、洋、中、全部を広く浅く習い、それが1年間。 就職する時に会社を選ぶんですが、僕はお菓子屋を希望して、福岡に帰り「赤い風船」に就職し、当時薬院にあった工場でお菓子作りをしました。
その後、もっとお菓子作りの技術を磨きたいという思いが強くて、「赤い風船」に3年間勤めた後、福岡市南区の「シェクアノ」で6年間修業しました。
田中
「シェクアノ」さんでの修業はどうでした?
鷲埼氏
「赤い風船」は基礎を勉強できましたが、自分のスキルを高めたくて再度、個人店で修業しようと思い先輩の紹介でシェクアノさんに 入れて頂きました。カルチャーショックでした。 まず、親方が怖かったです。面接でビビリましたね。

まず言われた事は、「今まで3年間やってきた事はまず忘れて下さい」と「たぶんあなたがやってきた事は、このお店ではなんの力にもならない」という事を実感させられました。 意味が良く分からなかったけど、全然違う世界なんだろうなという事を最初の面接で言われたんです。
自分としては、「わ〜っどうしよう、自分は入るのかなって」自分で決めないと、ただ縁があってこの店に紹介されたんだから、 やるだけやってみないと・・。それが22歳の時です。

まず入ったら厨房内はフランス語だからと言われたんです。
「え〜っフランス語、知らないし・・・」と思ったんだけど、でもフランス語と言っても器具とか作業内容とかそう言ったのがフランス語であって 日常の会話は全然日本語でした。 最初から「ボンジュール」かなって思いましたから・・それがクリアできましたから、それだけでほっとしました。

お菓子作りに関しては全然違いましたね。
もちろん朝も早いし、一番違うのは少人数だけど、仕事がものすごく水のように流れるんです。
向き合って仕事してる分、誰かが作業してたら、誰かが見ているし、その仕事の中で誰かが先の工程に入って、また、誰かがそれを見てそれの工程に入る。
お菓子ってこうゆう風に作れば、お菓子を十作るのがその時にかかる時間が15分で終わるようなそういった世界なんですね。 一番強烈に学んだのが、お菓子屋さんはスピードが大事だなぁと言うのもその時に始めて実感しました。
「赤い風船」では基礎を勉強できたし、「シェクアノ」ではそれに色を付けてもう一回基礎を叩き込まれて、よく言われるパティシエに近づけたような気がします。 やっぱり厳しかったし、ノイローゼにもなったし、何回お菓子屋さんを辞めようかなって思った事もありました。 そこに行くまで、これで食えると思うまで6年間過ごしましたけど最初の3年間は変な言い方ですけど、地獄でしたね。
田中
本当にお店によって、いろいろ違いますね。
鷲埼氏
今でこそ笑い話ですけど、もう白衣をシェフの部屋の前に置いて、脱走しました。
もう無理だと、仕事の速さとか、レベルの高さに、多分追いつけなかったんでしょうね。
先輩達も一生懸命やっていて、僕は入ってまず、お店の接客だったんです。厨房には入らせてもらえなかったんです。
朝、少し厨房に入って、まず販売のほうを1年半させられて、それで1年半やって初めて厨房に入って、その時にはもう24歳でした。 でも仕事の流れにとてもついて行けなくて、もの凄く苦しかったです。
具体的に作業があってそれについて行けないのもあるんだろうけど、まず会話に入っていけない。
朝、仕事が終わったら厨房のほうで賄いを食べるんですけど、休憩時間とか、その時にもよく先輩達とかフランス料理の話とかされるんですね。僕らは、ちょっと蚊帳の外みたいな・・もちろん僕だけじゃないんですけど、僕の同期とかもそうなんだけど、朝もガンガン怒られているし、 胃が痛くて朝飯が入らないんです。

仕事も大変だけど、その店に居て、スタッフじゃないような、そういう孤立感が苦しかったんです。
お店の公衆電話でよく仲の良い友達に電話して「ちょっと聞いて・・もう死にそう」とか、愚痴を言って心を和ませていましたね。
でも、よく面倒をみて頂いた先輩が近くに住んでいらっしゃって、今でも慕っているんですけど、その方が「わしちゃん、わしちゃん、終わったら遊びに来いよ」と言ってくれて、「今日も凄く怒られていたみたいだけど」と、いろんな話を聞いてくれてそれだけが、唯一の救いだったんで、そんな先輩が居なかったら多分続けてないだろうと思います。

文字

田中
その先輩がいたからこそ仕事も辞めずに続いたんですね?
鷲埼氏
今でも、苦しいような気持ちになるんです。
思いますけど、組織って一生懸命やっていたら、多分誰かがいい方向に導いてくれるんじゃないかなぁと思っているんです。 そういう事をスタッフにも言うんですけど、まず目の前の仕事を一生懸命に取り組めば見てくれている人は絶対にいるから、それでどんどん人って成長するし、可愛がられていくんじゃないかと、社会ってそういう風に出来ている感じがするんですね。
あの頃、ふてぶてしく仕事をしていたら、その先輩も目を掛けてくれなかっただろうし、自分はがんがんシェフや先輩に怒られているし、しょげていたんだけど、唯一その先輩だけは見てくれていたんだと思います。
脱走した時も、来てくれて、「甘ったれるな」って殴ってくれたんですよ。
その時の事は今でも憶えているし、もう絶対に店に戻らないと決めていましたから、ちょうど2年目で厨房に入りたての頃です。

それで、結局戻って、それから少しずつ仕事を覚えていくわけですけど、少し自信が持てて、そういう風にやっていく中で、今度はどんどん後輩が入ってくるんです。 で、もう先輩って言う風に言われるんですよ。
当たり前なんだけど、自分は先輩なんだって、結局自分は2番手になり、黒ズボンはかせて頂いて、チーフという名刺渡されたんです。 その位から、凄く自分に自信が出てきて、今度は将来的な事を考え出してきて、その当時に結婚もし、それでカミさんと相談していく中で、他の店も考えているけ ど、「ここを出たら俺、独立したいんだ」と言ったんですね。
そうしたら猛反対されて、「どうするのお金がないよ・・まずお金やろ」と言われ「ん〜どれくらいかかるか分からないけど全て借金して始める」って、それからなんですよ。
田中
それで、その後、独立をされるわけですね。
鷲埼氏
そうですね。シェフに相談して、独立するにはどれくらいの資金が必要ですかと聞いたんです。
そうしたら「ん〜二千万弱はかかるだろうな」と言われて「えっ二千万ですか」って見た事もないような金額で、それをどうするかと言うことから始めました。 それと同時に店舗も探し始めました。
シェフには正月に、夏頃をめどに辞める旨を伝えていて、その年の7月いっぱいで退職し、10月にはオープンしたんです。
で、7月に辞めるまでに古賀の物件ですけど、貸店舗の物件を見つけ、1991年10月にオープンしました。
田中
幾つでオープンされたんですか?また、オープン当初はどうでしたか?
鷲埼氏
28歳になったばかりで、当初はカミさんと二人で始めました。変な話、売れるのはよく売れました。
多分二人でやってたから売れてると感じたと思うんだけど、十分やっていけるなっていう手応えは感じました。
最初いろんな事を聞かされて、住宅街じゃなくて、今から立ち上がる街で当時、家もあまりなかったんです。 こんな所で大丈夫かと言うのが大方の意見で、こんな家もない人もいない所で商売が出来るはずがないだろうと言うのが、親戚も家族もまた、周りの友達とかそんな事ばかり言われていたんですね。
ただ、役場で、まず千鳥駅が出来るって言うことを聞かされて将来的に千鳥パークタウンっていう大きな集合住宅が出来るという事を聞かされたんです。 そういうのもあって今は少ないけど、絶対将来的に人が集まってくるし、魅力ある街になるっていう事を僕自身思ったんです。
だから出したんです。旧店舗では8年間営業しました。
田中
お店の「オーヴェルニュ」という名前は?
鷲埼氏
これはフランスの地方の名前なんですよ。 これは独立する前に雑誌でオーヴェルニュ地方の記事を見ていて、もの凄く田舎らしいんですが、オーヴェルニュ地方の人たちは仕事熱心で向上心に富んでて働き者だという事が書いてあったらしくて、「あんたにぴったりじゃないと田舎もんだけど働くのは働くよね」って、ロゴがAで始まるのも気に入ったし、響きが好きでこの名前にしました。

田中
旧店舗で8年されて、現在の独立店舗に移られるわけですね?
鷲埼氏
ちょうど8年ぐらいで、製造能力が、厨房が限界に来て、スタッフも増えて狭くなってきたんですね。 移転したいと思った時に、その街が商店街みたいになってきたんですよ。
僕はあまりそういうのが好きじゃなくて、何もない所に自分達の店があるというのが理想だったんです。それで、たまたまうちのお客様が不動産をやられてて、僕の話がその方の耳に入ったんでしょうね。
この場所があるんだけれども買わないかって「えっ〜」寝耳に水で思っていたんだけど、実際、自分が買って払えるかっていったら、ちょっとそれは現実的な話なんで、かなり悩んだんだけど、こういったのも流れかなって思ったんです。 それで、思い切って移転を決意しました。1999年10月です。
現在の店舗と旧店舗は一直線ですから近いんですよ。自分達で運べる分は自分達で運びました。 移転オープンの時には、こんな事はめったにないんでテープカットなどセレモニーをしました。
田中
菓子職人にとって大切な事とは?
鷲埼氏
まず、お菓子が好きである事。お菓子に対して愛情を持つ事。気持ちを込めるって大事な事だと思うんですよ。
料理もそうだけど、好きな人に作る料理は特別だろうし、本当に気持ちが入っているモノとそうでないモノは味が違う気がしますね。 そして、健康である事、どんな時にでも一定のレベルでお菓子を作れる体力、精神的な面が強い事、そういう風にやっていけば多分いいお菓子が作れると思います。
それを継続していけるタフさがある事ですね。
田中
これから菓子職人になりたいと思っている人にアドバイスを。
鷲埼氏
僕は面接する時に言うんだけど、3年、5年やればみんな大体そのレベルになると、続ければ絶対なれると確信する。
保障してやると、ただそれを3年、5年続けれるかどうかがまず問題だって、それまで行かなくて辞める者がほとんどなんですね。 それをクリア出来て他の店に行ったりすればそれを職業にするんです。
ただそれを継続していける。独立する前にタフさを付けれるかどうかが多分必要だと思います。
田中
本日はありがとうございました。
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