吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
鈴木氏
生まれは1955年の4月19日。
山形県米沢の出身なんですよ。
吉野
小学生の頃の鈴木オーナーはどんな事に熱中していましたか?
鈴木氏
米沢城の城跡近くの上杉公園の池でヘラブナとかの沼魚を釣るのが好きでした。
日曜日になると夜中3時頃に起きだして友達と一緒に行ってましたね。そんなに釣れるもんじゃなかったけど大漁だと家に持って帰って佃煮にしてもらいました。
シェフ
それと音楽が好きだったんで小学1年の頃からピアノを習いに行ってました。 友達にギターとかトランペットを習っているヤツがいたんで・・・・・だから体育系ではないですね。
吉野
ご実家は何をなさってたんですか?
鈴木氏
家は商売です。煎餅とか珍味とか・・・・生めんを製麺所から卸してもらって、それも売ってましたね。
普通では手に入らない高級な食料品を扱う店をやってました。
吉野
ご兄弟は?
鈴木氏
姉がひとりいます。
吉野
では、跡継ぎだったんですか?
鈴木氏
う〜ん。両親は食料品店を継がせるつもりはありませんでした。中学の頃までは自由に自分の好きな事をやらせてもらってましたから。中学では数学が好きになって、父の知り合いの山形大学の数学の先生の家に教えてもらいに行ってました。
その先生は機械が好きな方で、私にアンプの組み立てキットをくれて、それを組み立てるのに熱中しましてね・・・・それで電気関係の仕事に興味が湧いてきました。今でも電気の配線や水道の蛇口の取替えとかは自分でやります。
でも当時は、菓子業界に入るとは思ってもいませんでした。
吉野
菓子職人になるキッカケって何だったんですか?
鈴木氏
母が、もち菓子屋の娘だったんで、両親は母の実家を継がせたかったんですよ。
だから高校に入る時に和菓子の職人を希望する親の願いで商業高校に入ったんです。
当時は、自分の希望というよりも親の希望が優先する時代だったんで卒業したら京都の和菓子屋に行けと言われたんですが、どうせ菓子職人になるんだったら和菓子よりも洋菓子に興味が芽生えて、時代の流れも洋菓子にあるように感じて、「菓子職人になるのはいいけど、和菓子よりも洋菓子をやりたい」と言ったんです。
吉野
ご両親にその希望は受け入れられたんですか?
鈴木氏
何とか認めてもらったですね。
本当は東京に行きたかったんですが、父が重い病気だったんで、近くがいいということで高校卒業後は仙台の「ラ・セーヌ」という洋菓子店に修業に入りました。
吉野
どういった経緯でそこに行かれるようになったんですか?
鈴木氏
実家の食料品店と取引のあった洋菓子店のシェフが、仙台職人個人で一番最初に店を出した素晴らしい洋菓子店があると紹介されたんです。
そこが「ラ・セーヌ」だったんです。
吉野
菓子修業は大変でしたか?
鈴木氏
父がスパルタ教育で殴られるのが当たり前だったんで・・・菓子の修業が厳しいという感じじゃあなかったなぁ。
朝7時から夜は8時とか9時まで仕事してましたが、う〜ん・・・・大変ではなかったなですね。
ただお金がなく好きなものが買えなかったんで、それが大変と言えば大変でした。当時は住み込みで食事は出てましたんで給料は3万円だったと思います。2万円は貯金してましたし・・・・残り1万円が自分の小遣いでした。
吉野
当時はバタークリーム全盛でしたか?
鈴木氏
入って2年目から生クリームが入ってきたんですが、その年はまだバタークリームのケーキが売れてました。
3年目からは圧倒的に生クリームのケーキが主流になりましたね。
バタークリーム全盛の時代のケーキは、生地やクリームにコーヒーを入れればモカケーキだし、チョコレートを入れればチョコケーキになったんです。そういうレベルのお菓子だったんです。
でも生クリームが出てきてお菓子作りが変わりましたねぇ・・・。ちょうどその頃が本格的なフランス菓子の専門店が東京に出てきた時代ですよ。ムースが流行る前の時期です。
昭和で言えば49年から58年までの10年間で洋菓子業界は劇的に変わりましたね。
吉野
東京への憧れはあったんですか?
鈴木氏
そうですね。ラ・セーヌに入った年の5月に父が亡くなったんで仙台ではなくてもよかったんです。
3年半ラ・セーヌにお世話になり、その後 別の菓子店に入ってお菓子作りも面白くなってきた頃なんで東京に行こうという事はあまり意識はしていませんでした。
でもある日、テレビで東京の洋菓子店のケーキが紹介されたんです。
「ごちそうさま」という番組だったと思うんですが、それを観てからその店に強く惹かれましてね。仙台から何度もそのお店を訪ねて修業をお願いしたんです。1年以上も通って入れるようになったんです。
吉野
凄い熱意ですね。いよいよ憧れの店で修業ですね。
鈴木氏
ええ、24歳で上京です。でも1年半ほどで病気になりその店を辞めねばならなくなってしまったんです。
吉野
それは辛かったですね。
鈴木氏
半年間は病気療養でした。
それから「アンソール」という洋菓子店に入り、1年半後にフランスでフランス料理の修業してきた友人のレストランでデザートを作る仕事をやりました。それと並行してイタリアンの「イル・キャストロ」という店でデザート作りを教えたりしていました。
そういう日々の中でフランス菓子に対するあこがれが日に日に強くなってきましたんです。年齢も29歳となっていましたんで、ここでフランスへ行ってフランス菓子を勉強したいと強く思うようになったんですよ。
そこで、パリの知り合いのところに行きそこを拠点に30軒以上のお菓子屋さんに修行をお願いしたんです。
吉野
どうでした?
鈴木氏
当時フランスでは、国内事情が変わり自国の労働者の権利を守るために外国人労働者に対しては労働許可がなかなかおりない時期だったんです。私の場合は、強いコネもなかったんで雇ってくれる店はなく、ついに修業できる店がなく帰国しました。
吉野
大変でしたね。
鈴木氏
ただ、この時に料理人の友人と食べ歩いた本場の数々の星付きの一流店の味や店の存在そのものが現在の自分の菓子作りや菓子に対する考え方の基礎を作ってくれたと思います。
吉野
帰国後はどうされたんですか?
鈴木氏
前に勤めていた「アンソール」のオーナーからお声をかけていただいたんです。
私としても思いっきり自分の腕を試してみたいという気持もあったんで、私の作るお菓子でやらせてもらえるからという条件で戻りました。
吉野
腕は発揮できましたか?
鈴木氏
私が入る時には3人の職人がいたんですが、途中でひとり辞めて私を含めて3人で売上は2倍になりました。
吉野
職人がひとり減って売上が2倍というのは凄いですね。
鈴木氏
でしょ?私も頑張りましたよ。
同じお菓子でも配合を毎回変えたり工夫は色々してました。味を微妙に変えたり、甘さを変えたり、歯触りや舌触りを変えたり・・・・とお客様を飽きさせないようにしました。
製造のスタッフも毎回変えるんで大変だったと思います。でも菓子職人としてはお客様に喜んでいただけるお菓子を提供したいという気持があるんだったら、美味しさへの探究心は絶対必要でしょ。ですから自分も常に新しい美味しいものを追及していました。
フランスから講習会で来るシェフの助手を積極的に務めたり、年に何回かはフランスの行かせてもらってたんで売上が2倍になっても給料は変わりませんでしたが・・・。
吉野
味や食感に対する探究心は凄いですね。
鈴木氏
私は美味しいお菓子があるとそれを作っている職人に臆することなく聞いてました。
菓子職人が別の職人に聞くとなるとプライドがあるから、なかなか聞けない人が多いんですが、私の場合は、分からないんだったら聞くということは、別に恥ずかしいことではないと思っています。学ぶべき点があるんだったら謙虚に学ぶべきだと思っています。
自分の腕やプライドに固執しすぎるのはマイナスだと思いますね。良いものはすぐに取り入れるというのが私の考え方です。
吉野
フランスに行かなくてもフランス菓子は学べるんですね。
鈴木氏
学ぼうという気持ちがあれば大丈夫ですよ。
私の場合は、労働許可がおりなかったんで逆にフランスに対しての憧れは強いんです。その憧れがお菓子作りのエネルギーになっています。要はフランスに行って修行したかしなかったかではなくて、フランス菓子に対する想いが強いかどうかですね。
日本での講習会で助手を務めたのがキッカケでフランスのバールデュックにある「オーパレドール」のアンドレコルデル氏に知り合い、彼のお菓子作りに感動して今でも毎年フランスに行ってます。
ですから私の場合は、何年間フランスで修行してきましたではなく、死ぬまでフランスで勉強している気持ですね。
吉野
やはり、その想いが店名の「エスプリ・ドゥ・パリ」に現れていますね。
鈴木氏
フランス菓子ってのは奥が深いし幅も広いと思うんですよ。
自分の作ったお菓子を「どうだ!これこそフランス菓子だ!」っていう人もいますけど、とても違和感を感じるんですよ。ここは日本ですからフランス菓子をそのまま持ってきても日本人の味覚には合わない場合もあります。
だから私の場合は、日本人にも美味しいと思っていただけるお菓子をああでもない・・・こうでもない・・・とレシピや素材を変えたり、別の素材と組み合わせたり色々工夫して作ってるんです。
もちろん、お菓子作りのベースはフランス菓子ですが、私の場合はフランス菓子とはこうあるべきだという固定した考え方はありません。フランス菓子ってのは歴代のシェフがお客様からいかに「美味しい」という言葉を引き出すかを競い合って探求してきた歴史だと思うんです。
その探求する精神が好きなんです。だからフランスの精神ってことでこの名前にしました。
吉野
「エスプリ・ドゥ・パリ」はいつ開店されたんですか?
鈴木氏
実は、「エスプリ・ドゥ・パリ」をオープンする前に「おかし倶楽部」という会社を設立したんです。1990年35歳の時ですが・・・・。
吉野
「おかし倶楽部」を設立したのは何か理由がおありになったんですか?
鈴木氏
洋菓子店をオープンして商売をしていこうという営利目的の気持よりも、職人の人材育成、お菓子の技術の継承により多くの価値を見いだしていきたいという思いからなんです。ひとつの店を経営するという発想からもっと広い視野でお菓子を提案していくというスタンスで会社を設立したんです。
ですから「エスプリ・ドゥ・パリ」という店は「おかし倶楽部」のひとつのブランドという位置付けなんです。
吉野
なるほど。お菓子は色んな可能性があるという事ですね。それを実現するのが「おかし倶楽部」なんですね。具体的には「エスプリ・ドゥ・パリ」はいつオープンされたんですか?
鈴木氏
「おかし倶楽部」の設立と同じ年ですから1990年です。
その数年前から、そろそろ独立しようと思って色んな物件を捜したんですが、なかなか条件に合うところがなかったんです。
生まれが田舎なもんで緑の多いところがいいなぁ・・・と思って、探しているときに今の店を見つけたんです。
吉野
この辺は緑も多いしうってつけの場所ですね。
鈴木氏
そうなんですが、バブル絶頂期だったもんですから不動産屋で聞いてみると保証金がとんでもなく高かったんですよ。
その金額では無理と言うと・・・・減額してくれたんですが、その金額もその当時はまったく想像できない金額でしたんで、断ったんです。では、いくらだったらいいの?・・・って言われたんで「500万円なら・・・」と返事をすると「それでいいです。2〜3年後に残りを払ってください」ということになり今の店舗の隣の小さなテナントスペースでスタートしました。
吉野
環境はいいですね。
鈴木氏
緑は多いし、武蔵野市民文化会館前ですからね。
最初は資金も多いほうではなかったんでお菓子の卸を積極的にやらないといけないなぁと思っていたんですが、文化会館のホールでのコンサートとか催しが終わるとお客様がど〜っと押し寄せてくるんです。
もうそうなると足の踏み場もないほどの混みようで・・・。当時はバブル時代でしたから催しものが多かったんですよ。それが毎日でしょ・・・。
土日ともなればお菓子を作っても作っても間に合わない状態でした。
吉野
今はどうですか?
鈴木氏
文化会館を使ってのイベントは、以前よりは少なくなりましたけど、開店当時のお客様には現在でも来ていただいています。
昔みたいにひとつのイベントが終わって嵐のようにお客様が来られて嵐のように去っていくという場面は少なくなりました。
吉野
現在の店舗はいつから始められたんですか?
鈴木氏
2000年にオープンしました。当時は、お菓子の卸もやってましたのでお菓子を作るスペースが狭かったんです。
でも何とか10年くらいは狭いながらでもやってはきたんですが・・・限界でした。
ちょうどその頃うまい具合に隣にビルが完成したんで、すぐにそこを借りました。今までの店舗は現在でもお菓子工房として使っています。
吉野
お菓子の卸っていうのは業務としてはどうですか?

文字

鈴木氏
自分のお菓子を思い通りに作ってたほうが楽ですし効率はいいです。卸の場合は先方の意見もありますし、完成品だけを納品する訳ではないのです。
同じ商品でも完成品と仕上げ前の状態のものを分けて納品する場合があるので大変です。
吉野
同じ商品で完成したものと仕上げ直前のものとに分けるとなると確かに手間はかかりますね。
鈴木氏
届ける場所によってもそれぞれの個数が違いますので、個数の確認作業もあるので大変ですね。
吉野
現在では、お菓子を要望する場所は多いですね。カフェや喫茶店はもちろんですが、レストランや日本料理店でも洋菓子の需要は多いみたいですね。
鈴木氏
スイーツブームだからでしょうね。それ自体はありがたい事だと思っています。
それにお菓子の卸をやっていたお陰で、そのノウハウが役に立っているんです。
吉野
それは、どういう点ですか。
鈴木氏
うちでは、「エスプリ・ドゥ・パリ」の他にも別ブランドで「オー・ファン・パレ」というタルト専門店もやっているのです。
タルトを作って「オー・ファン・パレ」の各店舗に届けていますので卸で培った経験が活かされています。
吉野
お店はどこにあるのですか?
鈴木氏
荻窪、町田、大宮のルミネという商業施設に入っています。
吉野
「オー・ファン・パレ」は鈴木オーナーが立ち上げたものですか?
鈴木氏
違います。前の経営者から譲り受けました。2店舗で2005年から始めました。大宮店は2008年オープンです。
吉野
どういうお考えでお始めになったんですか?
鈴木氏
「おかし倶楽部」として「エスプリ・ドゥ・パリ」とは違うタイプの店をやりたかったんです。
タルトというお菓子をどれだけ多くの人に受け入れられるように育てられるかという事が面白そうだと思ったんです。
吉野
「オー・ファン・パレ」で提供しているタルトにはどういう特徴があるのですか?
鈴木氏
店を引き継ぐときにゼロからタルト台を見直しました。
タルトの素材を吟味して配合や焼き具合とかの素材や製造方法を何度も試してタルトの美味しさに確信を持てるまで工夫しました。
吉野
なるほど。「もっと美味しいものを」が鈴木オーナーの考え方ですからね。
鈴木氏
タルトの上には全国から取り寄せたフルーツを載せていますので、フルーツに合わせて数種類のタルト生地を作っています。
それ自体はとても手間がかかることなので他の店ではなかなかやりませんが、フルーツの個性・・・・香りや味や舌触りなどを考えてタルトの完成にも時間がかかりました。タルト台には北海道産のチルドバターやスペイン産マルコナ種のアーモンドプードルを使っています。
ですから決してフルーツに負けることなく口の中でフルーツと絶妙のマッチできる「フルーツを使ったタルト」としてのおいしさを表現しています。私としてもフルーツを楽しんでもらうというよりフルーツと一緒に食べていただくお菓子を美味しいと思っていただけるようにしたいんですよ。
吉野
お客様の反応はいかがですか?
鈴木氏
タルト自体は「エスプリ・ドゥ・パリ」本店で職人が焼いています。
それを各店舗に配送して、店舗のスタッフがフルーツをタルトに盛って仕上げています。
これらのフルーツは、私が全国の生産農家を訪問して生産者から直接買い付けているんですが、通常の流通ルートにはのらないフルーツには本当に美味しいものがあるんですよ。それを見つけてくるのも私の仕事です。おかげさまでタルトの評判はいいですよ。
現在3店舗ですが、今後の出店計画もあります。具体的には2009年の秋に神奈川に2店舗出店します。
吉野
菓子職人にとって大事なことって何ですか?
鈴木氏
探究心です。これがないとだめですね。
私が菓子職人になった時はお菓子の材料ってのは今よりもずっと少なかったんです。
外国の材料がなかなか日本に入ってこなかったんで、自分で似たものを探して工夫しながら作っていました。
今は、果物のペーストからシュークリームの皮の生地、折り込んだパイ生地まで取り寄せる事ができる時代です。
吉野
なるほど今の方が格段に便利になってきているんですね。
鈴木氏
そうです。便利にはなっています。
昔は自分で考え研究し工夫してた事が今では、材料などが豊富に揃っている時代ですから、当たり前のようにできちゃうんですよ。
だから工夫をしなくなるし、探究心も出てこない・・・・。行き着くところは、職人の質の低下です。
今はパイの折り方もしらない職人もいる時代です。
洋菓子店は儲かるということで昔から、異業種からの参入が多い業界なんです。特に最近は、簡単にお菓子が作れる時代なんでますます洋菓子店が増えてます。素人でもファーストフードを作る感覚でお菓子を作ることができます。
出来合いの物だけを使っていると、もっと食感の面白いお菓子を作ろうと思ってもできないんですからね。
それでは職人とは言えないでしょ?

吉野
鈴木オーナーは根っからの職人ですね。
鈴木氏
私の場合は、お菓子を見て作り方や材料が分からないものがあったら、それをどうしても知りたくなるんです。美味しいお菓子を食べたら、それ以上の物を作りたくなるんです。
それが職人っていうもんだと思います。
私にとっては利益よりも自分のような美味しいお菓子を追求できる職人を育てたいと思っているんですよ。今まで培った菓子技術を伝える事は本当に嬉しいことなんです。
それさえきっちりやっていれば大もうけはできなくても利益はついてきます。

商社などが運営している洋菓子店では効率と利益を追求しますので、素人でもできる簡単な当たり障りのないお菓子になりますが、私も含め菓子職人であるなら職人らしくお菓子を追求していくのが大事な事だと思います。
吉野
「おかし倶楽部」として今後やっていきたい事はありますか?
鈴木氏
そうですね。色んな事をやってみたいですね。
昔は講師を招いての講習会をやっていました。今はなかなか時間がとれなくてできませんが。
他にもアイデアは一杯あるのですが・・・・。そうですね。少し落ち着いたら子供向けのお菓子教室をやりたいとは思っています。
以前、小学生向けのお菓子教室をやった事があるんですよ。それで失敗しましてね。
吉野
どういう失敗ですか?
鈴木氏
相手が小学生って事を忘れて話をしたんです。長い時間熱心に語ってしまいましてね・・・・。
最初は真面目に聴いてたんですが・・・1時間過ぎたあたりから緊張感がなくなってきたんですね。ザワザワ・・・ソワソワしだしましてね。あれっ・・・最初はあれだけ真剣だったのにと思ったんですが・・・
吉野
熱く語られたんですね。でも小学校の授業は1回40分程度ですから子供の集中はそれが限界ですね。
鈴木氏
あれは失敗でしたが、子供向けのお菓子教室は取り組んでみたい課題のひとつですね。
お菓子作りがいかに楽しいか菓子職人がいかに素晴らしいかを未来ある子供に伝えていきたいんですよ。
吉野
パティシエ、パティシエール志望の方にアドバイスをお願いします。
鈴木氏
一番はお菓子が好きであることです。食べるのが好き。作るのが好き。だからもっと美味しく作ろうと熱意を持つという事ですね。
お菓子を追求する心を惜しまないということです。
それに時間を気にするんだったら菓子職人にはならないほうがいいと思う。いや・・・なれないでしょうね。
今の若い人は言われた事はキッチリやるんです。でも逆に言えば言われた事しかやらない。なぜか?自分の自由な時間を求めたがるんですよ。本当に菓子職人になりたいんだったら自分の全ての時間をつぎ込む気持にならないと職人にはなれないですね。
吉野
菓子職人になるためには安易な道はないということですね。
鈴木氏
富める時代だから足らない時代のバイタリティーがないんです。
今は情報もたくさんありますから勉強しようと本気で思ったらどんな情報も取り出せる時代ですけど、あまりにも豊富にあるからいつでもできると錯覚してしまうんですね。
昔は情報自体もなかった、だから自分で探すしかなかった。
だからひとつの事をやろうとするにも心意気っていうかバイタリティーがあったんですよ。昔の方がね・・・・。
吉野
今の方が恵まれているという事ですか?
鈴木氏
恵まれています。今の人の方が昔の人よりも何百倍も有利な立場にいますから面白い時代であることは確かです。
ですから情報を敏感にキャッチできる感性とやる気のある人が成功していくでしょうね。
情報や豊富な物を当たり前と感じるか、逆にそれらを元に物事を深く追及していけるかが分かれ道ですね。その為にも修業時代は常に問題意識を持って、お菓子作りの為に自分の時間を全て投げ出すぐらいの意気込みは必要ですね。
人間をダメにするのも良くするのも自分自身であるという事を忘れないで欲しいですね。
吉野
今日は、長い時間お話をありがとうございました。
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