シャンプノア



吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
柳瀬氏
1962年3月28日愛媛県の松山市で生まれました。
吉野
愛媛県松山市といえば「道後温泉」で有名ですね。
柳瀬氏
そうです。夏目漱石の坊ちゃんにも登場する有名な温泉です。
吉野
小学校の頃の柳瀬オーナーは、どういうお子さんでした?
シェフ
柳瀬氏
化石採取が好きな子供でした。道後温泉の近くに化石が採れる場所があったんです。アンモナイトの化石も採れる所です。
小学校の理科の授業で先生が大きな貝殻が入った化石を持ってきたんですよ。何億年も前の生き物が土の中の石に化石として残っているのが不思議で、それから興味を覚えて友達とよく行ってました。
それと絵を描くのが好きでした。絵画コンクールで金賞や銅賞もとったこともありました。
吉野
化石が好きで絵画も好きってロマンがありますよね。当時なりたい職業とか何かありましたか?
柳瀬氏
絵を描くのが好きだったこともあり漫画家になりたかったんです。
当時、少年ジャンプという漫画雑誌に川崎のぼる先生の「荒野の少年イサム」という西部劇の漫画が連載されていたんですが、それに熱中して漫画家になるんだと小学校から中学まで漫画を描いてました。ただ、高校の時に色盲だということが分かりあきらめたんです。
それからは、自分で何か商売をしたいなと考えていました。
吉野
具体的にやりたい商売というのはありましたか?
柳瀬氏
実家が飲食店を経営していたんで、喫茶店とかいいなあとも思っていましたので高校を卒業してからは地元のレストランへ就職しました。
吉野
料理を作られていたんですか?
柳瀬氏
最初はウエイターをやって、その後、コックの見習いをやったんですが、そのレストランが店をたたんだんです。
松山市で何軒かレストランを経営していたんですが・・・それで、本格的に料理を作るところまではできませんでした。
吉野
その後、どうされたんですか?
柳瀬氏
車のオーディオメーカーに入りました。
吉野
菓子職人になるキッカケというのは、どういうものだったんですか?
柳瀬氏
ケーキが流行りだしたのが、ちょうどその頃だったんです。
昔のケーキ屋っていうよりも、少しオシャレな洋菓子店という感じの店が少しづつオープンしてきた時代でした。それで、菓子職人になって松山で洋菓子店でも開いてみようという気持ちになったんです。その時、僕の妻が広島に美味しいケーキ屋さんがあるよと教えてくれたんです。
吉野
その頃、奥さんとお付き合いをされていたんですか?
柳瀬氏
ええ、同じ会社で妻が広島で事務をやっていて、僕が松山で営業をしていました。
その広島の店に菓子職人になりたいという気持ちを書いた手紙を送ったんです。
吉野
何というお店ですか?
柳瀬氏
コンディトライ・サカモトというドイツ菓子の店です。空きができるので採用するという返事が来て、広島に行きました。
吉野
どうでした、初めての菓子修業は?
柳瀬氏
店に入った時の年齢が23歳ですから、通常よりも遅いスタートだったんで、早く菓子作りを覚えようと必死でした。
その店は広島に本店があり、廿日市、五日市にも支店があり職人が6人いました。昼休みはご飯を食べたらすぐに仕事をして、夜は最後まで残ってチーフに練習させてくださいって言って菓子作りを習いました。
だいたいこの業界に入ってくる年齢は20歳くらいですから、年下の先輩もいるわけですよ。その先輩に教えてって言うのは少し抵抗があったんですが、何とか3年間のブランクを早く埋めたいと思って必死でした。
吉野
仕事は、朝何時からだったんですか?
柳瀬氏
朝の7時から夜は8時くらいまででしたから、そんなに厳しい職場ではありませんでした。
生菓子で25種類くらいで焼き菓子も15種類くらいでアイテム数が少なかったんで、その程度の労働時間でよかったんです。
今のお菓子屋さんの方が商品のアイテム数が多いので時間的にはハードです。生や焼き菓子も多くなっていますし、おやつ菓子やらギフト菓子もありますからお菓子の数で比較すると今の方が断然多いですね。
吉野
その店には何年間おられたんですか?
柳瀬氏
3年間いました。早く一通りの事を覚えたくて3年間でどうにかものになる所まではできるようになりました。
ドイツ菓子は地味なものが多かったんで、もう少し華やかなフランス菓子を学びたくなりまして、神戸の洋菓子店を捜したんですが、就職が決まらなかったんです。広島で捜そうと思って職業安定所に行ったら菊家で菓子職人を募集していたので、そこに行くことにしました。
吉野
菊家というのはどういう店ですか?
柳瀬氏
大分に本店がある和洋菓子の店だったんですが、広島に10数店もの店舗を出していた時期だったんです。大きい菓子店のお菓子作りにも興味があったので、入社して2年くらいして菊家が広島にあったバッケンモーツアルトという洋菓子店に店舗を譲って撤退してしまったんです。
吉野
それからどうされたんですか?
柳瀬氏
菊家に就職していましたので、大分に行くか広島でバッケンモーツアルトの仕事をするか迷ったのですが、広島に残る事にしました。
吉野
バッケンモーツアルトでは、どういう仕事をされてたんですか?
柳瀬氏
主に商品開発です。店で出す新しいお菓子や季節モノのお菓子の開発ですね。
でも新しいお菓子を開発してもすぐに現場から突っ返されるんですよ。
吉野
どうしてですか?
柳瀬氏
多店舗展開の洋菓子店というのは毎日多くのお菓子を大量生産しなければならないんです。だから「合理的にラインに乗せれるか」とか「原価をおさえてるのか」ということを厳しく言われるんです。
パートさんでも簡単に作れるお菓子ではないといけないし、原価もできるだけおさえないといけなかったんです。何だかお菓子を作っているというよりも、物を大量に生産しているという感覚になってきたんです。だから個人経営の洋菓子店でこだわりのあるお菓子を作る方が自分には合っているのかなと思って辞める事にしました。
その後、広島市内のミニヨンというシュークリームが有名な店があったんで、そこに入りました。
吉野
多店舗展開の洋菓子店にはなじめなかったんですか?
柳瀬氏
そうですね。高校の頃から自分で商売する事に憧れがあったんですが、それは、ただ単にモノを売るという商売ではなく、お客様との触れ合いを楽しめるような商売をしたかったんです。
喫茶店のカウンターで常連客相手に自分が作ったものを出しながら、「今日は暑いですね」とか「昨日はカープが負けましたね」とか会話も楽しみながら商売するイメージがあったんです。洋菓子店をするにしても、店のカウンターにお客様にできたてのデザートを楽しんでいただきながら会話もできるような店を目指していました。
だから、大量にお菓子だけを作るっていうことに抵抗感がありました。
吉野
なるほど、お菓子作りといっても色んなパターンがあるんですね。その後、どうされましたか?
柳瀬氏
ミニヨンに入ってからしばらくしてフランスに行ったんです。
吉野
いつ位からフランスに行こうと決められていたんですか?
柳瀬氏
ヨーロッパやフランスに行ってもいないのに、フランス菓子は日本人には合わないとか、甘すぎてしつこいとか、知ったふりをしてフランスのお菓子の事は語れないと思ったんです。本当にそうなのかを自分で経験してみたかったんです。
吉野
どこに行かれたんですか?
柳瀬氏
ルクセンブルグのオーバーワイスという店とロレーヌ地方のオ・パレドールという店があるんですが、そこに行って、それからパリのべリエコンセイユという製菓学校で勉強して、シャンパーニュ地方のヴァンサンダレという店に行きました。
吉野
色んな所に行かれたんですね。お菓子作りに関して日本との違いは感じられましたか?
柳瀬氏
日本に居てもフランスのお菓子の製法はリアルタイムで入ってきてたんで、そんなにびっくりするような違いはなかったんですが、ケーキのデザインが日本人の感性とは違うカッコ良さがありました。フランス人の持っている独特な感覚というか発想に驚きました。
吉野
ご苦労された事はどんな部分ですか?
柳瀬氏
やはり、語学ですね。道ひとつ聞くのにも苦労しました。最初に行ったルクセンブルグの店のある街には日本人がだれもいなかったんで、大変でした。言葉が通じないと相手にされないんです。だから、自分から積極的に話しかけるしかなかったですね。
吉野
観光旅行ならまだしも、仕事で言葉を話せない外国に行こうという気持ちが凄いですね。
どういったいきさつで最初の店に行かれたんですか?
柳瀬氏
フランスへはずっと行きたかったんですが、行くすべを知りませんでした。たまたま先輩から店を紹介してもらってチャンスだと思ってダメもとで手紙を書いて送ったんですよ。
吉野
手紙はフランス語で書いたんですか?
柳瀬氏
フランス語を教えている先生に僕が書いた日本語を翻訳してもらいました。
そしたら、返事が返ってきたんです。1年後に採用してあげるという事でした。
吉野
柳瀬オーナーの気持が通じたんですね。
柳瀬氏
それから、フランス語を勉強したり・・・不安と期待が入り混じった1年間でした。
吉野
1年間の語学勉強ではやはり通じなかったんですか?
柳瀬氏
お菓子を作る現場は戦場ですから、早口で指示が飛び交い作っていくんです。仕事自体は、日本とそう変わらないので分かるのですが、言葉が早くて何を言っているのか聞き取れないし、それに対して話せない・・・もちろん、仕事にもなりませんでした。
ただ、何日間か見ていると、その店で朝の準備をどのようにするかが分かるんで、朝一番に行ってダスターを洗って、消毒して、クリームをたててという準備を終わらせてしまうようにしました。
店の同僚が来ると全て朝の準備が終わっているんで、「じゃあ、これできる?」と言ってくれて、それをやらせてもらって、「できるじゃない。じゃあ、これは?」という感じで・・・・あれもできる、これもできるという風にやりながら仕事をすることができるようになったんです。身振り手振りしながらでしたけど・・・。そうやって、少しづつ同僚ともうちとけていきました。
吉野
フランス菓子は日本のお菓子と比べてどうでした?
柳瀬氏
そうですね、前提であるフランスと日本の食文化がまったく違うという事が分からないとお菓子は語れないと思うんです。
フランスの食事をして、その後に甘いエクレア食べたら本当に美味しいと思うんです。しつこい食事に対しての甘さなので違和感がないんです。ただ、日本に帰ってきてフランスのお菓子を食べたら甘すぎると思うんです。
日本人がフランスで修業して帰ってきて、そのままフランスのお菓子を出すと甘すぎるという事になると思うんです。
吉野
なるほど、お菓子の甘さなども食文化の違いからくるものですね。
柳瀬氏
日本の食事は、淡白ですし、料理自体に砂糖やみりんを使っているんで、食後のデザートやおやつにしても甘さを抑えたお菓子が受け入れられると思います。
フランスの食事の場合は、塩であったりコショウであったりの味付けですんで、塩っ辛いいし、しつこい感じでインパクトがあるんです。だから、より甘いより濃厚なお菓子が好まれるような傾向があると思います。
吉野
生まれ育った食文化でお菓子の感じ方もちがうんですね。
柳瀬氏
そうですね。食文化の違いは大きいですね。
日本人ですから、どうしても西洋のこってりしたものが続くとあっさりしたものが食べたくなりますよね。だから、パリに行って最低でも1ヶ月に1回は日本食レストランで食事をしてました。そばやうどんはまあまあ食べれますが、ラーメンはまずかったですね。

文字

吉野
給料はどうでした?
柳瀬氏
最初の店では住み込みで月に8万もらってましたから、良かったほうですね。2軒目の店では住み込み食事付きで給料はありませんでした。3軒目では食事付きで給料は出ないと聞いていたんですが、1ヶ月働いて5万程度もらえました。そこそこ仕事ができたからという事でした。
吉野
フランスに行かれた時にはご結婚されていたんですか?
柳瀬氏
ええ、子供もいましたんで家族は置いていきました。妻は、フランスに行きたいと言った時にはいい顔はしなかったんですが、こんな機会はもうないと思っていたんで何とか説得しました。
吉野
フランスから帰られてからは、どうされたんですか?
柳瀬氏
ミニヨンに戻り工場長として働きました。1年間働いて独立しました。
吉野
生まれ故郷の松山ではなく広島で独立されたのは何か理由があるんですか?
柳瀬氏
松山には畑田さんや一六さん、母恵夢(ポエム)さんという地場大手のお菓子屋さんが駅や主要な場所で多店舗展開していましたし、個人店の洋菓子店もすでにがっちりやられてました。
それと何よりも広島に長く住んでいたので友人や仕事関係の人脈が多かったというのが広島で店を出した最大の理由です。
吉野
この場所で店をオープンさせようと思われたのはどうしてですか?
柳瀬氏
広島の中心部からはかなり離れてはいるんですが、アストラムラインの沿線でマンションも建ってきていて人口が増えてましたんで、ここに決めました。子供がまだ小さかったんで妻の実家が近いという理由もありました。
吉野
店名の由来はどういったものだったんですか?
柳瀬氏
ヨーロッパで修業した所がシャンパーニュ地方のお店で、「シャンパーニュに住む人たち」という意味で付けました。
とても素敵な街だったし特に印象に残っていましたんで、店名のイメージが良さそうな気がして名付けました。
開店の資金は、全て借金でした。フランスで蓄えは全て使い果たしてしまいましたんで。
吉野
フランス修業に投資されたんですね。店のオープンはいつだったんですか?
柳瀬氏
1997年ですがみごとに売れませんでした。借金しているのに、また借金するという経営でした。
吉野
ご苦労されたんですね。売れない理由は、どういう事だったんですか?
柳瀬氏
ムース、小さい、高い・・・・これですね。売れなかった原因は。
お客様が来てムースを指さして「何これ?」と聞かれて「ムースです」と応えると「ムースならいらない」という感じでした。
ショートケーキやチーズケーキが主流の時代だったんで、ムースとか馴染みがなかったんですね。フランボワーズよりも苺という時代だったんです。おまけに小さいし、値段が高いし、焼き菓子も10種類しかなかったんです。
吉野
なるほど、地元の方が考えているケーキ屋という感じではなかったんですね。
柳瀬氏
だから、当時はつねにカリカリして怒りぽかったですよ。
吉野
どなたかに相談されましたか?
柳瀬氏
オープンしてしばらくしてフランス時代に同じ時期にフランスで修業していた人が東京で店を出していたんで、相談しました。ムースが売れないって言うと「東京でも売れないよ。でもねぇ、自分で美味しいと思うんだったら、出し続けないと売れない。それと地元の人に合わせたお菓子を作らないといけない」と言われたんです。
吉野
なるほど、東京でも同じなんですね。
柳瀬氏
その頃は、売れるものは何だろうと模索していた時期でした。
フランスや東京のスタイルを目指していたんですが、少し目先を変えて関西の洋菓子店のケーキを参考にしました。関西のお菓子は、ボリュームがあってフルーツが大盛りでというイメージがあるんですが、それは、それで見た目のセンスの良いお菓子も多いんです。独特のセンスのケーキです。そういうお菓子を見ている時に「フランス菓子にこだわらなくてもいいんだ。自分のお菓子を作っていこう」と思ったんです。
フランスのお菓子を紹介しようという事ばかり考えていたんで、行き詰っていたんだと気付きました。自分がフランスで習ったものを出すんではなくて、もっと肩の力を抜いて自分なりに考えたお菓子作りに変えました。
そしたら、そのお菓子が売れるようになって、あっ、こういうスタイルのお菓子が、この地域のお客様には受けるんだと分かるようになってきました。
吉野
具体的にはどういうお菓子ですか?
柳瀬氏
関西のケーキ作りを参考にしているんですが、やはりフルーツをたっぷり使った価格をおさえたボリュームのあるお菓子です。
吉野
なるほど、フランスのお菓子を紹介するという考えではなくて、自分で作りたいお菓子ですね。
柳瀬氏
僕は、めんどくさいお菓子を作るのが好きなんです。めんどくさいお菓子というのは、手のこんだお菓子です。
ムースの中にフランボアーズのジャムをしのばせたり、ガナッシュの層やスポンジの層をいくつも重ねたプチガトーを作ったり、味のアクセントを考え素材を組み合わせて作り上げていくのが好きなんです。
そういう手間のかかるようなお菓子を作るのが菓子職人なんだと少し力みすぎていた気がします。フランスで修業してきたという自信が、裏目にでてきていたんですね。もちろん、そういうものを好まれるお客様もいらっしゃるんですが、圧倒的に少ない。
吉野
なるほど、マニアックな方には好まれるとは思いますが、地元のお客様の大多数は、そういうお菓子には不慣れなんですね。
柳瀬氏
商売として洋菓子店を経営するためにはもっと地元の方々に好まれるお菓子を作らないといけないと思いました。
関西のお菓子を見てみると日本人が好みそうな分かりやすいお菓子なんです。フランス菓子とか外国のどこどこ菓子とかいう風にこだわって作っていないんです。いわば、日本の洋菓子です。
でも、スポンジとフルーツ、生クリームやカスタードクリームで色んなバリエーションのケーキを作るとなると、シンプルなだけにこれはなかなか難しいもんなんですが、少しづつこういう風なお菓子を作るようになりました。考え方も変わってきました。チョコレートの細工をするよりも苺をのってけあげようとか、苺にかわいい顔を描いてあげようとか・・・・そういう部分に気をつけることで、だんだんお客様に近づいていってる様な気がしました。
吉野
やはり、地元密着の洋菓子店の場合は、地元の方々に好まれるようなお菓子ではないと生き残っていけませんよね。
柳瀬氏
確かにそれは言えますが、でも、それだけでは、オーナーシェフの店としての面白さには欠けるんで、自分が作りたい、自分の個性を活かしたものもいくつかは出すようにしました。
めんどくさいフランス菓子的なお菓子も少しづつは作るようにしています。その辺のケーキのアイテムのバランスは考えています。
でも、根本は、自分を変えていかないといけない。お菓子作りを趣味でやっているのならフランス菓子にこだわってもいいと思うのですが、商売するとなるとこれじゃあいけない。10人のうちで8人のお客様に来ていただけるようなお菓子を作らないといけないと思っています。
吉野
今の洋菓子店は、色々考えないといけない部分がありますね。
柳瀬氏
今の洋菓子店は変わりましたよ。昔は、洋菓子店のオーナーの発信するお菓子という考え方だったんですが、今は、地域のお客様を中心とした考え方になってきています。駐車場を広く構えた洋菓子店もその典型だろうと思います。現代は、車社会なんで、お客様の利便性を考えるとこうすることで多くのお客様に来ていただけるようにしています。
お菓子も生ケーキに加えて、おやつ菓子やギフト菓子というカテゴリーのお菓子も取り揃えないといけない時代です。
吉野
柳瀬オーナーは、今後の店の展開は、どうお考えですか?

柳瀬氏
そうですね。カフェスタイルの洋菓子店にずっと興味があります。今は、店の広さの問題でできませんでしたがカウンターでもいいから飲み物とお菓子を楽しめる空間が欲しいんです。
とてもテイクアウトにできないような今にも崩れそうな作り立てのデザートを出していきたいんです。そのスイーツの説明をしながら、ソースをかけたり、その場でカットしたり・・・・世間話でもいいですから、お客様と接していきたいですね。そんな店をどこかでやりたいと思っています。
僕は、人と話すのが大好きなんで、今でも接客したいぐらいなんです。
吉野
最近、パティシエになりたいという若い方々が多いんですが、柳瀬オーナーからアドバイスがあれば、お話下さい。
柳瀬氏
今の子は、何でもゲーム感覚なんです。すぐにリセットしたがる。
入ってすぐに自分には向いてないと言うし、違う道を捜そうとするんです。もうちょっと、その先にあるものを見てもらいたいですね。合わないとか言ってすぐに他の職業を捜そうとするけど、そういう子は、どこに行っても同じ壁にぶつかります。
吉野
女性と男性を比較した場合、どう感じますか?
柳瀬氏
女の子の場合は、店を持ちたいという子が少ないんで、長く勤める場合が多いですね。お菓子が好き、お菓子を作るのが好きって事ですから、お菓子作りができるようになるまでは辞めないんです。
でも、男の子の場合は、お菓子が好きというよりも一生の仕事としてパティシエを目指していますが、朝早くから夜遅くまでずっときつい仕事です。それに、今は、週休2日が当たり前ですが、休みも少ない。だから一生の仕事としてやっていく自信がだんだんなくなってきて辞めるんです。
男の子は、結論が早いんですよ。よほど自分で店を持ちたいという気持ちがないと続かないんですね。まずは、洋菓子店に勤める前にじっくり自分の将来やりたいことを明確にしないといけないと思います。
吉野
柳瀬オーナーにとって菓子職人にとって大事な事とは何ですか?
柳瀬氏
うちに入ってくる子に「何がプロフェショナルだと思う?」と聞くことがあります。
僕は、線を引くことができる人をプロフェショナルだと思います。
吉野
線を引く事ですか?
柳瀬氏
これ以上は商品にならないという手をぬくギリギリの線を下げれば下げるだけ商品の質は下がります。だから商品としてお客様に自信を持ってお出しできる質の基準の線引きの見極めができるかどうかです。
吉野
商品としてお出しできる質を決めるという事ですか?
柳瀬氏
お客様にとっては、ケーキを作るのに菓子職人が手間隙かけて作るろうが作るまいが関係のないことなんです。いわば、商品として見て納得すれば買われるんです。要するにケーキを1時間で作ろうが5分で作ろうが商品的な価値があればいいんです。
趣味でお菓子を作っているのなら1時間かけようが2時間かけようがかまいません。でも、プロフェショナルはそんな事をしていたらお客様を満足させる品揃えができない。その辺のギリギリの線引きをできるようになればプロです。
吉野
そのへんは洋菓子店の経営をしていかないと分からない部分ですね。
柳瀬氏
プロにはスピードが大事なんですよ。フランスでも日本でもプロの職人のスピードは、まるでスーパーマンです。
和菓子ならオートメーションで機械でお菓子を作ります。1時間で何千個の饅頭も作れる器械があります。洋菓子は機械化ができない。人の手で作る場合が圧倒的に多いんです。
素人が1時間かけてやる仕事をプロは、5分で終わらせます。ただ、まずは丁寧に手抜きしない、早くて雑よりは遅くてもきれいな方がいいですが、プロしてのスピードときちんと心を込めて作るという事の線引きが大事です。
吉野
なるほど、良く分かります。
柳瀬氏
もちろん、質の悪い商品を出せば、もう次の日からお客様は来ません。商品としての質を保ちながら、どこまで合理的にお菓子作りをすればいいかの線引きが大事です。
フランスでは、マダムが、その線引きをします。職人が作ったお菓子を見て「これは、出していい」「これは、出さないで」と判断するんです。お客様に出す前の段階でチェックするんです。
吉野
なるほど、プロは、手を抜いていい所といけない所を心得て仕事をしているという事ですね。手を抜くというよりも合理的に仕事を行なうという事ですね。
柳瀬氏
そうです。洋菓子は鮮度が命ですから、時間をかけてだらだらやっていたら鮮度がどんどん落ちてきます。
手を抜くというのは語弊がありますが、合理的にやっていく事が大切です。
新人の子にやらせても良い作業は、どんどんやらせます。自分しかできない仕事はもちろん自分でやります。仕事の内容の線引きも大事な要素です。
吉野
趣味の世界ではないからですね。プロとしてやっていく以上は、そういう部分は大切ですね。
柳瀬氏
僕の座右の銘は、「一生懸命やる」です。
店を始めたときには、自分の思い違いでお客様に大変迷惑をかけましたんで、お客様から美味しいと言ってもらえることが本当に嬉しいんです。ですから、これからも何事にも誠実に一生懸命お菓子作りをやっていきたいと思っています。
吉野
今日は、貴重なお話をありがとうございました。
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